京子ちゃんのお兄さん──所長は特徴的なその鼻のバンソウコウをカリカリと引っかきながら重々しい声で言った。
「すると、まだ誰も殺されておらんのだな?」
これには仕事の依頼に来たおじさんの方が目を丸くした。
「は、はい。そんなことがあったら警察を呼びますから」
「ふむ…」
所長は不思議そうな顔をした。何しろ身長百八十五センチで体脂肪が五パーセントという体格の持ち主だから、そういう何気ないポーズにも威圧感があって、とても大学を出て間もない若造とは思えない。風格だけはちょっとした格闘家にも負けないものがある。
「なるほど、どうやら今後も誰かが殺されるわけではなさそうだ。これはどうも俺の出る幕ではないな」
黙って二人のやりとりを聞いていた俺は、部屋の奥の隅にあるリボーンの机のところへ行き、彼と顔を見合わせた。またおかしな客が来たじゃないか。どうするんだリボーン、という気持ちを表情で伝える。
「でも、こちらは探偵社さんでしょう」
おじさんがすがるように言った。
その通りなんだ。京子ちゃんのお兄さんである笹川了平先輩が所長、そして俺がたった一人の所員ということでこの探偵事務所を始めてからほぼひと月がたっている。サバ読んで見積もってもやっと高校を出たばかりという年格好に見えるリボーンは助手兼事務員というところだ。
「そうだが、うちは主に犯罪捜査を扱っているのだ」
「犯罪ではないかも知れませんけど、すごく不思議な事件ではありませんか。夜になると猫がいろんなものに化けてうろつき回るんですよ」
俺は疑うような顔でリボーンを見た。その問いを悟った彼は頭のうしろで手を組んでから何気ないことのように小さな声で言った。
「あのオヤジは嘘言ってねーぞ」
やっぱりそうかと小さくうなずく。リボーンの言葉はワケありの事情があって信用できるのだ。
俺は、一歩おじさんの方に歩み寄って発言した。
「その猫はかなり歳をとってませんか?」
「ええ。今の家に越してきた時から棲みついていますから、十年以上は確実に生きています」
思い当たることがあった。
「それなら…ひょっとしてその猫の尻尾は二つに分かれていませんか?」
「あっ、そうです。どうして知っていらっしゃるんですか?確かに尻尾が根元から二本に分かれています」
ソファに座っている所長が怪訝そうに俺の方を見上げる。
「だったらそれは多分、猫又という奴です。昔から有名な化け物ですよ。猫があんまり歳を取ると化けるようになるんです。尻尾が二つに分かれているのが特徴なんです」
「そんな化け猫がどうしてうちに出るんでしょう」
「たまたま飼っていた猫が年を取ったわけですから、それ以外の理由なんかありませんよ」
「───とにかくだな」
所長が結論を下すように重々しく言った。
この事務所を開設する資金は先輩の家から出ているわけだし、一応先輩が所長ということになっているんだから、先輩が結論を出すことに不服はない。
「その事件は犯罪とは無関係のようだ。単に化け猫が出るというだけでは、うちの仕事として引き受けるわけにはいかん。化け猫は営業品目に入っていないのでな」
「それじゃあ、どうすればいいんでしょう」
決まっているじゃないか、という調子で所長は言った。
「保健所へ相談するのがよいのではないか。多分、何とかしてくれるだろう」
*
そのおじさんがすごすごと帰ったあと、客が居てもはじめから名探偵を気取る様子さえ無い“探偵事務所”の所長はいつもの口調で言った。
「おい沢田、ろくでもない客ばかり来るではないか。この前は透明人間に狙われているような気がするっていうOLで、今回は化け猫だ。もっと、こう──まともな殺人事件の話はどうして来ないのだ」
俺はお手上げだという顔をしてリボーンの方を見た。肘掛けもなく、背もたれだって感触の悪い安い椅子をギイギイいわせながら、そこいらのタレントなんか霞んでしまうくらい見目が整った顔が意地悪そうに見つめ返してくる。所長は知らないことだが、実はああいう変な依頼人が来るのはリボーンのせいなのだ。
京子ちゃんのお兄さんだから言うのも気が引けるけれど───所長もどうかしている。私立探偵のところへ殺人事件の捜査依頼なんかあるわけないじゃないか。漫画と現実は違うってことがどうして分からないのだろう。
この探偵社でまともな男は俺一人だ。本当は探偵になんかなりたくなかった、というのが、そもそもまともな証拠だ。だが、不思議な事情で、この探偵社で働くことになってしまった。
俺の名前は沢田綱吉という。
今どき名前が『吉』で終わるなんて、珍しい名前であることは認める。だが俺の名前を聞くと必ず、日本人はへぇ、と興味深そうな顔をする。そして、その先はきまって。
「やっぱり、犬が好きなんですか?」
と訊いてくるのだ。
それはかの名将軍からかぞえて五代目にあたる犬好きの馬鹿将軍を思い浮かべたからに間違いはない。
実は俺の家は、何をトチ狂ったか代々その将軍家の下の名を拝借し続けているというとんでもない家系で、長男が生まれれば強制的に歴代将軍の名前をつけられる。そして、役所に出してしまった出生届と住民票は大人だって大変な手間をかけない限り訂正できない。だからいくら嫌だと泣こうが喚(わめ)こうが、子ども一人が謀反を企てたってその馬鹿馬鹿しいしきたりを覆すのは相当無理な話なのだ。
念のために言っておくと、俺は犬が嫌いだ。というか、犬のほうが俺のことを嫌いなんだと思っている。お向かいさんの、銀ねず色の柵向こうで飼われている血統書付きの利口で大人しそうな犬だって、俺の姿が視界にはいったとたん親のカタキを見たようにギャンギャンと吼え立ててくる。
その俺は今、笹川了平極限事務所というところで働いている。
事務所は並盛通りに面したマンションの一階にある。事務所といってもリビングルームにカーペットを敷き、机三個と電話一台、それに来客用の応接三点セットがあるだけだ。
そんな探偵事務所で、しかもやっているのが大学を出たばかりの二人組、とあっては仕事なんかろくにないだろう、と考えるのが当然だ。俺だって自分がやってるんでなかったらそう考える。
ところが、不思議なことに、この探偵社に仕事を依頼してくる人間が結構いる。大繁盛というほどではないが、何だかんだと忙しい。普通に考えればとてもありえないようなことがここで起こっているのだ。
わけを話さないと信じてもらえないだろうと思う。なんで俺たちのような未熟な若造の探偵社がやっていけるのか。なぜ、奇妙な事件ばかりが持ち込まれるのか。そして、そもそも探偵なんかになるつもりは全くなかった俺が、どうしてこんな仕事をしているのか。
それを説明するには、ひと月前の出来事を物語らなきゃいけない。俺の人生をとんでもない方向にねじ曲げたとてつもない事件のことを。
いや、話したとしても信じてもらえるかどうか不安だ。だって、俺だって、あれが実際にあった出来事だとは、今でも信じられないような気がするんだから───。
*
了平先輩から初めてそのプランを聞いたとき、俺はやんわりと拒否をした。
「雲雀先輩とか適役なんじゃないでしょうか。」
奥へ逃げようと正座をくずし、立ち上がりかけたところ首根っこをつかまれる。
「おい逃げるな沢田。せめて説明を聞かぬか」
「先輩ごめんなさい俺やりたくないし興味もありません」
弱く言っても感じないのが先輩の良いところでもあり、悪いところでもある。場所はその頃俺の住んでいた1DKのアパートだったので、先輩の向こうにある勝手口から外へ逃げるにも無理があった。
「探偵といってもな、男女の仲をコソコソ探るような興信所とは違うのだぞ。犯罪捜査を専門にやるのだ。それもハードボイルドを基本にした本来の探偵業だ」
本気でそういうことを考えるのが先輩のすごいところだ。この人は中学生からずっとそういう調子で、悪い人じゃないし、時には侠気(おとこぎ)のあるところを見せてくれたりするのだけど、いつも考えることがまともな人間から少しずれているというか、ずっこけていて、少し付き合いきれないところがある。先輩後輩の関係で話に付きあうのはいいが、社会に出て了平先輩と組んで仕事をやる気は俺にはなかった。そんなことをしたら、こっちの人生まで冗談になってしまう気がする。
「ハードボイルド専門の探偵なんて仕事来ないような気がするんですが…」
「そこはやり方次第でどうにでもなるのだ。コロネロ師匠がそう言っておったぞ」
先輩が師とあおぐ人間の名前が出て、俺は頭をかかえたくなる。コロネロという人は先輩が毎日通っているボクシングジムのチーフトレーナーのことだ。日本語とハシの使い方が上手い金髪青目の外国人で、見惚れるほど格好いいけれど古参新人構わずハードなノルマを課す鬼トレーナーとしても有名だった。そして、たまにドカッとジムを休む。休暇をとったさきの外国で危険地帯に飛びこんでは傭兵をしているというもっぱらの噂だ。厚手のタンクトップと年季のはいった迷彩のズボン、ミリタリーブーツという普段の物々しい格好を見てるとその噂も笑い話に伏せないところがある。でも、どうしてよりによって先輩は一般人とかけはなれた人間の意見を鵜呑みにするのだろう。
「あのチーフトレーナーは俺たちとは違う人種ですよ…とにかく何と言われても俺はその話には乗りません」
「そうムキになるな。どうせ今沢田はちゃんと就職しておらんのだろうが」
痛いところを突かれた。大学を出たというのに俺は就職に失敗して、アルバイトでやっと生活しているという状況だったのだ。
「そ、そのうちちゃんと就職しますよ!」
先輩は腕を組んでゆっくりと首を左右に振った。それをやると、すごい大物のように思える。
「実はな、それでは俺が困るのだ。どうしてもお前と組んで探偵社をやらねばならんのだ。そうでないと師匠が金を出してくれん」
以後こんこんと受けた説明はブツ切りで分かりにくかった。けれど、一人ではどうせろくな仕事も出来ずすぐに潰してしまうだろうから、最低3人メンツを揃えたら出資してやる、ということをチーフトレーナーに言われたことは何となく分かった。
そして白羽の矢がめでたく俺に立ったというわけだ。