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夏休み前には強化合宿を合気道の道場に申し込み、同じ道場に通っているコロネロと数日前まで山奥の合宿所に泊まり込みをするなど大型休暇の間でも自堕落な生活を送ることをよしとしない自身が並盛町に帰ってきたのはつい一時間程前のことだった。
いくら体を鍛えても対策を講じなければ避けられない日射病を予防するために嫌々被っていた麦わら帽子をコロネロに「その…似合うぜコラ」と茶化されたので短気ゆえに鳩尾に蹴りを入れて三叉路で別れたのは今から五分も経っていない。
そんなイライラした気分のままでは一番会いたくない人にバッタリ出会ってしまったので気持ちの整理がとっさにつかづ、目を逸らせてそぞろな挨拶を返して不要な注意を引いてしまった。

「どうしたのラルちゃん。どこか具合が悪いの?」
心配そうに声をかけてくるその人は沢田奈々といって、初めて会ったのは二年前、並盛小の入学式の時だった。




* * *




どこに居るのか行方の知れない両親の代わりに親権を預かってくれた遠い親戚に諭される形で養親夫婦と一緒に暮らすことになった自分が日本の地へ降り立ったのは二年前のことだ。
会ってひと月もしないうちに保護者代理の養親は預かった子供を必要以上に構う必要が無いことを悟り、それからは齢六歳の自身を一人前の大人として扱ってくれ、起床から就寝まで時間の使い方の殆どを好きにさせてくれた。しかし見た目と実年齢は立派な子供なので来日三ヶ月目にして小学校に通うことになったのだが、そこで出会ったのが沢田奈々だった。
牛柄のパジャマのようなシャツを着た子供にスカートをぎゅっと掴まれながら嫌な顔ひとつしなかった奈々と入学式会場の体育館で隣同士になった自分の養母は気が合ったのか明らかに話を弾ませてその場でもう旧知の仲のような人間関係を築いているのを見ると、努力して奈々の連れていたもじゃもじゃっ毛の牛柄の子と仲良くなろうとしてみたが話が噛みあわずダメだった。
そんな自分の姿を奈々が見ていたようで家がかなり近いご近所と分かったそれからは何かと気にかけてくれた。
出稼ぎに出ていて一年の内三百六十日を海外で過ごしている万年単身赴任の父親の代わりに家を守っている奈々には一人息子が居るらしい。それならば二人暮らしかと思いきや、あと居候が三人ほど居ると本人の口から聞いたときは耳を疑った。一般人が食客を囲う話など殊の外日本では聞いたことが無かったからだ。
「今お家でお留守番しているのはビアンキちゃんとフゥ太くん」
どちらも日本人とは思えない名前に興味は尽きず、一度誘われるままに奈々の家に行ってみたが居候の誰もが個性的で圧倒された。その日は奈々の息子に会うことはできなかったがアグレッシブな居候と同居はさぞ肩身が狭いだろうと同情を覚える。

なんだ、自分も変わっているが奈々の家も変わり者揃いだな──そう認識したとたん自分の中のわだかまりが無くなり奈々と居ることが楽しくなって、内心、奈々のことを母親代わりに思ったことすらあった。


だから奈々にこんな顔をされるのは自分にとって殊更堪えるのだ。
買い物帰りだったらしく日傘と買い物袋で手一杯になった奈々の眉根が悲しそうにすこし下がる。淡い色の七分袖カーディガンの下はマシキ丈のワンピースを身につけているのに汚れてしまっても良いのかとこっちこそ咎めてしまいそうになるくらい奈々は両手塞がったままあっさりしゃがんで裾を汚すと自分と同じ背丈になり、目線を合わせて心配そうに尋ねてくる。
そうじゃないんだと慌てて首をふる。すると分かりやすく奈々の雰囲気がほっ、と和らいだものになった。
血の繋がっていない人間にここまでするのかと彼女に会う度俺はいつも目を瞠ってしまう。そしてコロネロに触れられたときは怒りさえ覚えた麦わら帽子に対しても奈々にかわいいと誉められれば悪い気がしない程に奈々のことはきらいじゃなかった。



家同士も50メートルも離れていないところにあったので自然と足の向く方が一緒になり、学校のことや気温のことなど話題に暇を出さずいると奈々があっ、と口に手をやって何かを思い出した時にするベタな仕草をつけて立ち止まる。
「そっかあ、ラルちゃんもう学校夏休みだったのね」
「そうだが?」
だから明日も明後日もコロネロと道場で昼練する予定を組んだんだ、と続ける言葉を返す前に奈々はぱっと笑顔になった。その屈託の無い表情に同じ女でありながら思わず口をつぐんでしまった。
「もし良かったらラルちゃんもどうかしら」
そう言って奈々が買い物かごの中から出してきたのは小さなチラシだった。日本語を覚えたとき、試しに目を通してみた高校の学習指導要領も特に問題なく読めたのでそれを受け取り、まっさきに飛び込んできた一番大きな見出しに目を走らせた。


“夏はやっぱり海水浴!海水浴といえば特盛海岸…じゃなくて!話題の隠れ家スポット『小盛(こもり)海岸』に決まり!!”


「小盛海岸?特盛海岸は知ってるが…」
聞いたことの無い海岸の名前に奈々と目を合わせれば奈々に「私も今日知ったの。」と相槌を打たれた。
「この先ずっと暑いっていうから、それなら海に行こうと思って近いところを探していたの。三時間かかっちゃう特盛海岸よりずっと近いでしょう?明後日の十時くらいにお家を出るんだけどラルちゃんもし予定がなかったら一緒にどうかな?」
彼女のまわりだけきっとマイナス五度ほど気温も下がって人の生活適温が常に保たれているのではないかと思う程、奈々は涼しげににこりと笑う。
返事に迷ったのは一瞬だった。
「奈々がそう言うなら行ってやってもいい」
自分の目の前でぱっと顔をほころばせてにこりと頬笑むこの人の笑顔に勝てる訳がないからだと無理矢理自分を納得させるようにかこつけるのは忘れない。
「ほんとう?嬉しいわ〜!じゃあ明後日の十時にラルちゃんのお家にお迎えに行くわね」
「わかった。俺も準備しておく」
バイバイ。の手を振り返し、奈々が次の塀の角をまがって姿が見えなくなったところでフと我に返り、しまった、と思うのはこれで何回かと頭の中で指折り数えようとしたがやめた。決めてしまったことを混ぜ返すのはプライドに関わるし幸いコロネロとの予定はいくらでもずらせることだった。
「急に断りを入れたらコロネロはあまりいい顔せんだろうが…まあいい」
小さく溜息をついて麦わら帽子の下から空を見上げる。
燦々と熱波を降らせてくる太陽の前ではあらゆるものが消し飛んでしまうのか雲一つ見当たらない。翳る様子もない。
奈々と国営の天気予報が言うにはこんな天気がこの先一週間も続くらしかった。

そんな時季だ。
海の日に海に行くのも悪くないと思えた。




* * *




この地方に住む人間なら知らない人間は居ないだろうと確信させるほど知名度のある特盛海岸はその広さ、交通の便の良さ、人入りとどれをとってもその名に恥じない海岸だが、小盛海岸も負けず劣らずかなり良い勝負で「名は体」を貫いていた。
つまり小盛海岸は「狭い」「電車も車道も近くを通らず不便」「人来ない」と三拍子揃うような海岸だったのだ。
だがそのマイナス要素をおしても来たかいはあり、海の透明度は特盛海岸より何倍も高く、澄んでいて浜辺に座って海を眺めているだけでも充分気持ちの良いものだった。──ただひとつのことを除いては。

「ええーっ!?俺が見るの!?だって俺これから山本たちと遊びたいのにさ〜!!」
紺のワンピース水着を着て小盛海岸の浜に降り立った自分と奈々を代わる代わる見返すなり奈々に向かってそいつは非難の口をとがらせる。
そいつの名前は沢田綱吉と言って、正真正銘こいつこそが並盛高校に通う二年生坊の奈々の一人息子らしい。
「ごめんね。ランボくんがずっと我慢してたみたいで熱中症かもしれないから少し休ませて様子を見ないと…」
見ればパラソルの下でしんどそうに呻っているもじゃもじゃっ毛は当てられたタオルから湯気を出す勢いで目を回している。
「ちょっと先にある救護所に行ってくるからその間ラルちゃんをお願い、ね?ラルちゃんも折角遊びに来てくれたのにバタバタしてごめんね、少しの間綱吉お兄ちゃんと遊んでてくれる?」
仏頂面のこんな息子と同類とだけは決して思われたくなかったので俺は気持ちに蓋をして背伸びした。
「いいよ。俺は大丈夫だから奈々はその子を看てあげてくれ」
すると今度は息子が振り返ってきて信じられないようなモノを見る目で自分をガン観してきたので若干イラつきが増したが無視に徹する。
小難しい顔をしていた息子はちょっと空を仰いで目を瞑るとガッカリ肩を落として渋々奈々を送り出した。




* * *




「ラルっていくつなの?」
「並盛小学二年」
「小二!?……大人っぽいとかよく言われるだろ?」
「だったらどうした」
「別に…だからどうするって事じゃないけどさ…。」
「余計な気遣いは俺には無用だ」
「………。」
噛みあわないままでもとりあえず遊ぼうと腰を下ろして砂浜の砂をいじくりながら小山を作り、トンネルの脇に深い穴を掘ったところで息子が海水を汲んだバケツを持ってそこへ流す。楽しさを微塵も感じられない共同作業が一区切りついてしまい、手持ち無沙汰になったそいつが景気の悪い声でボソリとつぶやく。
「…山本達…特盛海岸で今ごろ何してあそんでんのかな……」
顔には出てるが口に出されると尚更ムカついた。
自分も奈々と遊ぶことができなくなってそれなりに鬱憤を溜めていたのに九つも年上の男に軽くそう不満を言われることが耐えがたかった。
無言で立ち上がりパラソルの下に置いていた浮き輪をひったくると息子に言葉を吐き捨ててやる。
「オレは勝手にするからお前も勝手にしろ。じゃあな、沢田綱吉」
「えっ!?お、おい!待てよ!!」
癪に障ることに、慌ててついてきた息子の方に足のコンパスで分がある為すぐに追いつかれた。引き留めようと上からものを喋くられるごとに怒りが増したので足を止めてやる気はさらさら無い。
「待てって!どこに行くんだよ!?」
「お前には関係ない」
「関係あるよ!俺はお前の面倒見ることになったの!!さっき聞いてただろ!?」
「それならあの小さな岬まで行ってくるだけだから安心しろ」
ここから三百メートルも離れていない小さな切り立つ地形を指差して言った。
「あの崖のこと!?柵とかなんもねーじゃん!なんであんな危ないところに用があるんだよ!?」
「遊びに行くのに特別な意味など無い」
「いやいやいや…!遊ぶならこの辺でいいだろ!?」
普通に答えてやってるだけなのに俺が返事を返すたびに異様に慌てるそいつが俺を引き留める為にいつ実力行使に出てくるかと少し期待していたが、隣から口うるさくまくし立てるだけで手を出してくる様子はなさそうだった。肩や手を掴まれたら即座に蹴りを喰らわせてやったのに…軟弱者はこれだからしつこくて嫌いだ。
「なあラル、そっちは危ないからやめろって…!」
「余計なお世話だ、沢田綱吉」
ビーチサンダルを履いていたので難なく浜辺を抜けて雑草や小石を踏みしめながら岬を目指すことに障害はなかったが、奈々の息子は素足だったので時折小さく悲鳴をあげながらそれでも俺の後についてきた。息子の顔を見たくないから岬に行くのにこれではまったく意味が無い。
思わず溜息が出る。
「つきまとうな。迷惑だ」
「…は?」
「浜辺で奈々達の留守番していろ。気分転換したらすぐに戻ってきてやるから」
「なっ…何言っちゃってんのお前ー!?」
気に障ったのか目を白黒させた息子は今度こそ俺から離れるかと思えばどうしてかそういうことにはならず、これ以上行かせまいと俺の前に立ち塞がった。
「どけ、沢田綱吉」
「ラルお前が楽しくないのはよく分かるけどさ!だからってあんなに危ないところに行かなくたっていいだろ!?」
「無用な心配だ。自分の身は自分で守れる。万一俺に何かあっても俺が勝手にやったことだ、お前に責任はとらせない。俺のことは奈々から聞いてないか?」
「あ、うん…海外暮らしだったとかちょっとは聞いてるけどさ…」
「なら話は終わりだ。俺を子供扱いするな」
「いやいやいや!そういうことじゃないし!第一お前全然子供じゃ…──ぎゃっ!」
うざったさが我慢できる度合いを超えたので俺は遠慮無くそいつの脛(すね)を蹴り飛ばした。その場にひっくりかえった息子を侮蔑の目を向けて踵を返そうとした…ところで左手にいやな感触があった。
見れば地べたに這いつくばっている息子に思いきり手を掴まれていた。
「…俺に触るな。まだ痛い目見たいのか」
「ラル!!いけないっていうのが分からないのか!!」
「…ッ!」
今までの態度とは打って変わった厳しい目付きの顔の息子が、どこからそんな声を出すのかよく通る声を張りあげる。情けなくもその一喝で怯(ひる)んだのを悟られないようにこっちも意地で歩みを進める。だががっちりと掴まれた手を振りはらうことができず、結局一歩も進めることなく腕が痛くなるだけだった。
「離せ」
「…ラルが一緒に砂浜に戻るなら離すよ」
「戻らない」
「なら俺も絶対離さないからな」
「………」
…痛い目を見なければ物わかりが良くならないらしい。そう結論づけた俺は遠慮無く息子の顔面に蹴りを入れた。
また短い悲鳴をあげて息子は立ち上がりかけた膝をまた折るなり地面に転がる。
大人子供ひっくるめても二度俺の蹴りを喰らって満足に動けた奴はコロネロの他にいなかったので俺はせいせいした優越感に浸りながら今度はゆっくり岬へ向かおうと踵を返した──ところでまた腕掴まれる感触を覚え、思わずギョッとして振り返った。
「いてててて…!こらラル!いきなり蹴るな!」
「──ッ!」
蹴りが効いてないように振るまってくる息子に自分でも思った以上に驚いていた俺は静止の声など一切耳に入らず息子の手を振り切って走り出した。




* * *




後を追いかけてくる息子の足音が聞こえる。声も聞こえる。
それに捕まらないように俺は走った。
「ラル!ダメだって言ってるだろ!」
「ダメはどっちだ!お前こそついてくるなダメツナ!!」
「だっ…ダメツナって何だよッ!?」
「俺よりダメな奴だからダメツナだって言ったんだ!当然だ!」
「わっ…ワケわかんねーよ!…っラル!ちょっとお前いいかげん言うこと聞けよ!!」
岬のてっぺんまであと五十メートルほどしかない坂を全力で駆け上がる。あと二十メートル、十メートル、五メートル…──
「──ッ!?」
順調に距離を縮めてあと幾らもないというところで突然視界がブレた。
痛みも何も感じなかったのに自分の体が傾いていくのを全身で感じ、総毛立つ。
何が起こったのか理解できず反射的にダメツナを振り返るとハシバミ色の両目をこれ以上ないくらい見開いた顔にかち合った。
その顔が何かを叫ぶ。けど声は聞き取れなかった。
つづけて抗えない見えない力に引っぱられた足元に目を落とすと踏みしめていたはずの地面がボロボロに砕けて隙間から濃い色の海面がちらちらと覗いていた。

(落ちる──!)

全身が居竦みを起こして何も考えられなくなった。
「キャアッ!」
「──ラル!!」
最後に聞こえたダメツナの声は近いはずなのにやたら遠くから聞こえたような気がした。




* * *




「ん……んん、…──ッ!」
ぼやけた目が焦点を結ぶと岩肌でゴツゴツした天井が見え、倒れていたことを知った俺は反射的に飛び起きた。
「わっ…!ラル何だよ急にビックリするじゃないか!もうちょっとゆっくり起きろよ!」
すぐ隣から間抜けが焦ったような声がして振り返ると奈々の息子が俺を見て目を瞬いていた。
「……沢田…綱吉?」
「あとラルさ、その言い方なんかむず痒いから俺呼ぶときは「ツナ」にしてくれないかな?俺の友達みんなそう呼ぶし…」
「お前と友人になったつもりはない」
「うぐ…」
「ここは…どこだ?」
遠くに水平線に今にも沈みそうな夕日が細くかすれて見える。
そのオレンジ色の明かりを頼りに周りを見渡してみれば洞穴であることが知れた。波打ち際が足元から五メートルほどに迫っていたが、自分が座っているところまで水が来ることは無いものの、水は色濃く水深がかなり深そうだった。
頭上を見れば天井らしいものはなく、ぽっかりと空洞になっていたが長年の波の浸食で岩肌がツルツルしているうえに足がかりになるような突起物もなく、易々と登れなそうだ。
「…俺も必死だったから場所はどこか分かんないんだけど、洞穴っぽいよな、ここさ。」
「必死…?」
必死とは何だと思い返して記憶を呼び戻せば俺は頬がカッと熱くなるのを感じた。
岬の先から落ちて、沢田に助けられたのだ。

俺が、こんな奴に!

「でもラルが浮き輪持ってたお陰で助かったよ。一緒に落ちたときアレ無かったらマジで死んでた。それから岸に向かって泳いだんだけど流されちゃってさ、でも波が強かったけどそんなに流されてないはずだからまだ小盛海岸に居るとは思うんだけど…もうあとちょっとで日も暮れるしこの場所だろ?出るのは危なそうだから今日はここで大人しくしてようかと思うんだけどさ………ん?ラル?」
俺が黙り込んだことに目ざとく気がついた沢田は顔を覗き込んできた。うざったいし腹立たしいことこの上ない。けれどこの怒りを沢田にぶつけるのは命の恩人に対してあまりに理不尽に思えたので俺はせめて沢田の方を振り返るまいと背をそむけて耐えることにした。
膝を抱えて洞穴の隅に黙り込んでいると、ややあって呆れたような息づかい交じりに沢田の声が耳に届く。
「ラル、お前って…マジですごいな…。なんていうか……その性格っていうかさ…」
「うるさい。生まれつきだ」
「そりゃ…そうだろうけどさ…」
それきり会話も途切れる。
一秒ごとに室(むろ)の空気が重くなっていくのに耐えきれず俺は立ち上がった。
「俺はここを出る。今ならまだ間に合うはずだ」
「…は?」
俺はもう一度はっきり言った。
「ここを出る」
「……だってお前、ビーサン流されたじゃん。それなのにこんなところ歩き回ったら暗いし滑るしケガするしすっげー危ないよ」
「出る」
「ダメ」
「出るったら出る」
「ダメなものはダメ。ケガするから」
「──ッ!ケガなんか怖くは…!」
思わず挑むように振り返った俺は目の前の光景に冷水を頭から浴びせられたような寒気を覚えてザッと血の気が引いた。
沢田の足は何カ所も無数の擦り傷がミミズ腫れのように残り、両足の裏は血が止まってより一層よく分かる深い傷もあって、立ち上がることが出来ないのではと危ぶみたくなる程ひどい有様になっていた。
その傷が、元からサンダルを履いていなかった沢田が自分を追いかけたときに走ったり、この洞穴の奥まで自分を抱えてきたときに出来た傷であろうことを疑う余地は無かった。
俺が言葉を無くしたことに気がついたのか、言葉を選ぶようにゆっくり、でも反抗を許さない声で沢田が言った。
「ラルをこんな目に遭わせられない。だから絶対、ダメだ。」
「………」
その声に俺は少しも逆らうことができなかった。




* * *




日も暮れて海鳥も居なくなり、周りを取り巻く音が波音だけになった頃、どちらともなくその場に寝そべった。
天井が無く陽差しを遮るものが何も無いことが幸いして、腰を落ち着けた岩肌にはごく背の低い苔のような植物が生えていてそれほど冷たさを感じることが無かった。
それなのに沢田が手ずから寄越してきたのは沢田自身が羽織っていたアクリルのパーカーだった。
「……要らない。必要ない」
「昼間の内に乾かしておいたからもう濡れてないって」
「それならお前が着ればいいだろ」
もう体裁など構わずぶすっくれてパーカーを突っ返した。すると間髪入れずに突き返される。そのことにまたどうしようもなく苛ついた。
俺のあからさまな態度が分かっている癖に沢田は引かない。
体を起こして睨みつけてやれば沢田の真剣な目にぶつかった。
「俺ん家、ラルくらいのランボとかフゥ太がいるからよく分かるんだ。子供は体温高いけどその分すぐ体が冷えちゃうんだから、何か着てなきゃ風邪引くぞ」
「………」
まただ。またこの目だ。
どうしてかこの目をした沢田には逆らえなかった。
閉口しながらパーカーを受けとる。だがそのパーカーは妙にゴワゴワしていて不思議な感触がした。心なしか少し重いような気もする。
月明かりの下に差しだしてみるとそのパーカーはダウンジャケットのようにモコモコと脹らんでいた。
「何だコレは」
「そうした方が温かいんだって。そこんところに乾燥した紅藻があったから詰めてみたんだ。裏地と表地の間に詰めたからかぶれる心配も無いし安心だろ?」
「そういうことを聞いたんじゃない。…何でお前にこんな知識がある?」
沢田の返事はさっきまでの険など微塵もなくあっけらかんとしていた。
「あ、これ?前にテレビで観たんだ。海軍の水難サバイバル術の特番やっててさぁ…でもマジで役に立つんだね、ああいうのさ」
「………」
…他人(ひと)のことは言えないが見た目を裏切られてばかりで調子の狂うことこの上ない。

俺は沢田に対して、いざというときに限って相当出来る奴なのだと考えを改めた方がいいのかと思い始めていた。
何かを言う前に、沢田の手で改良されたパーカーを頭からかぶって腕を通した。
(暖かい…な…)
思ったよりもはるかに暖かく俺の体を保護してくれるその服に、不意に涙が出そうになった。
俺が憎まれ口を叩かないのを不思議に思っているのか、きょとんと自分を見てくる沢田に向かって顔を上げることができない。
そして、視線を落としてしまえば自然と沢田の足に目を遣ることになり、そこで俺はまた傷だらけの沢田の足を見ることになった。
(只でさえケガして足痛いくせに…こんな馬鹿なもの作ってやがったのか…)


──俺のために。


それなのに俺は「ありがとう」のひとことすら言わない。──言えない。
ここまでされて今更何を言えば良いのか分からない。
ひと言では足りない。
全然…足りない。

“──余計なお世話だ、沢田綱吉”
“──つきまとうな。迷惑だ”
“──俺に触るな。まだ痛い目見たいのか”
“──無用な心配だ。自分の身は自分で守れる。”
“──万一俺に何かあっても俺が勝手にやったことだ、お前に責任はとらせない”

「…………。」
沢田に向かって酷い言葉ばかり吐いてきた俺には今更沢田に感謝の言葉を言うなんて、絶対許されない気がした。
「ラル?どうした?もしかしてもう結構寒かった?……ごめんな。渡すタイミングなかなか掴めなくってさ…」

違う。違う。そうじゃない。

何かを言いたいのに今口を開けば意味のある言葉じゃなく嗚咽が出そうだった。
俺の肩のふるえを肌寒さからだと勘違いした沢田が「大丈夫」だと安心させるように頭と背中を撫でてくる。俺はその手を振りはらわなかった。
(──俺よりも沢田の方がずっと大人だ)
そう思うとさっきまで自分の中にあった嫌な痼(しこ)りが嘘のように氷解していくのを感じた。
俺は今まで自分が好きだった。
だがたった今嫌いになった。
それなら嫌いついでに今までの俺が絶対にしてこなかったことを敢えてしてやるのはお誂え向きのような気がした。それに、こんな些細なことで沢田が楽になるなら尚更だった。

「わっ、ラル?」
いきなり前から抱きつかれた沢田が驚いた声を上げる。
だが俺は沢田の胸に頭を押し付けてがんとして動かなかった。
「子供は体温が高いんだろ」
「そ、そうだけど…」
「なら俺を使え。懐炉代わりにはなるだろう」
「…カイロって、ラル…お前なぁ……」
振りほどかれてもいい覚悟でいたのに、沢田はそれから何かを言うことも無く俺の好きにさせてくれた。



海鳥の鳴く声は聞こえない。
波も静まってさざめきすらも聞こえない。
今俺の耳に聞こえるのはひとつだけ──沢田の心臓の音だけだった。
その音が今まで聞いたどんな音より、奈々のあの柔らかな声よりももとてもとても優しくて、俺は心地よさにずっと聞いていたいと思った。

(沢田綱吉…、綱吉、……──ツナ。)

「………とう」
「…え?」
「…………なんでもない。寝る。沢田も寝ろ」
「あ、うん。」
「…………」
「おやすみ、ラル」
「…………」
──聞かれなくて良かった。
俺は返事をすることも無く狸寝入りに声を圧しひそめつづけて、沢田から静かな寝息が聞こえるまで意味も無く緊張していた。

やっぱり言葉は駄目だ。弱くなる。

もっと強くなりたい。
体も心も強くありたい。
せめて沢田と一緒になれるくらい。強く──






* * *






──それから十五年後。
特盛港に停泊したとある海軍艦内にて。



(──おい、教官がどこに行かれたか知らないか?)
(なんだ、お前知らないのか?教官なら今日の朝一番に陸に上がったってよ)
(何?寄港地に問題でもあったのか?)
(大ありさ。何でも男に会いにいったらしいぜ)
(ウソだろ!?あの鬼教官が会いに行くような男が陸に居たのか!!)
(ああ、女らしい化粧までして上機嫌で出ていったって話だ)
(信じられん……どんな男なんだそいつは)
(ああ。気になるのは分かるが詮索しない方がいいぜ)
(何でだ?)
歯切れの悪い同僚に向かって厳つい顔の男は立てた親指でクイと後ろを指さした。


「救護所へ行ってみな。返り討ちに遭った奴が山ほど寝ころがってるぜ。それにあのコロネロでさえ聞き出せなかったんだ。──教官の守りは鉄壁だぜ」