「あら…雪だわ」
並盛駅の改札を出たところで奈々は小さなため息をひとつついた。いつもの柔らかな笑顔をこわばらせ、意を決したようにかたちの良い唇をきゅっと少しだけひき締め天然のうすいカーテンが敷き詰められた冷たい町にそろりと一歩をふみ入れる。月の光を宿らせた銀糸の切れはしにほほをさらす。生まれたばかりの結晶がシャラリシャラリと囁いて、奈々に凍るような耳鳴りを遺してとけた。
「うぅ…寒いわ」
ストールを左手で引き寄せながら縮こまり、そろそろと歩く奈々の姿はさながら叱られた子犬のようだった。しかし5年前の経験を生かして左脇でサイフの入ったバッグはしっかりガードしている。だが、その一方で右手には大きな紙袋とスーパーの袋がひとつずつ、全重量を奈々にかけておきながらそれをおくびにも出さず我が物顔でぶらさがっていた。結わえた紐が右手指を圧迫し手套にくいこむにつれ奈々はふらりふらりと危なっかしく歩道と車道を何度も横断してしまった。それというのも今日は特別な日だったからで、奈々が自分の持てる範囲を超えて買い物に熱中してしまったのも仕方のないことだった。
──今日はパーティーだったのだ。
「…やっぱり買い過ぎだったかな」
奈々はがっくりと肩を落とした。荷物をゆっくり降ろして手袋を取ると、奈々の手の平には二重の太線がくっきり赤く走っていた。自分で自分を軽く戒めるつもりでビニル袋の中身を覗き見る。チキンにポテトフライにシャンメリー、それらがビニル袋を変形させてまで所狭しと詰め込まれていた。30分前、パーティーに必要なありとあらゆる彩りを買い物カゴに放りいれてスーツ姿も意に介さずカートで押してくるまでは良かった。だが、いかんせん女性の規格に漏れない自分の非力さを奈々は失念していた。荷物が重すぎて帰途もままならない。タクシーを呼ぼうにも既に住宅地に来てしまっていたため掴まらないことは明らかだった。
「そうだ!ツッ君に電話しよ」
まるで春先のようなルンルン気分で奈々は携帯電話の電話帳を開いた。しかし薄情な息子は奈々が電話を5分以上鳴らし続けても一向に受話器を取ることはなかった。愛すべき息子からは無言の返事。町の風景は慈愛の精神すら冷え固まらせる極寒世界に逆戻りである。
「ツッ君…覚えていなさいよ…」
無機質に光る携帯電話の液晶画面を恨めしく睨みながら奈々はつぶやいた。電話のバックライトが自然と下から当たるので、彼女の心証よろしくホラーっぽくなっていた。
「仕方ない…もう一息がんばりますか」
ヨイショとかけ声一つ掛けてビニル袋をグイと持ち上げた途端ビリッと不吉な音がした。持ち上げたにしては異様な軽さにギョッとして、視線だけを落とせば案の定ビニルが幾重に筋を引いて無惨な姿を晒していた。頻繁に家事手伝いを買って出てくれるランチアの為に奈々が奮発して購入したイタリア産の赤ワインが申し訳なさそうに頭を覗かせている。「あら〜」と思わずマイペースな悲鳴を上げると体から一気に気力が抜けていった。進退きわまってほとほと困り果てた奈々だったが、気を取り直すと膝を折って破れたビニル袋から溢れた食材に手を伸ばす。
不意に、手の甲から腕にかけて闇が重なった。──人影だ。
「(え…こんな時間に誰かしら…)」
以前の苦い体験がサッと脳裏をよぎった。ひとりで町を出歩く時は十分気をつけていた奈々だったが、今このタイミングでスリに来られでもしたら対処のしようがない。もっとも、そう思っただけで体を強ばらせた奈々が、繰り返すまいとしている体験の二の轍を踏むことは火を見るよりも明らかだった。
しかしいつまで経ってもスリは襲ってくる様子はなかった。それに気が付いたとき、食材は影の持ち主によってあらかた纏められようとしていた。片づけが終わると片膝をついて向き直り奈々の様子をうかがいながら男が口を開いた。奈々は、自分の息子くらいの背丈なのに至って小さな男の子の声を路上へ響かせる不思議な光景に目をパチクリと瞬かせた。
「ママン、遅いから心配したぞ」
「リボーン君!よかったぁ助かったわ〜」
見知った声色を聞き、それがリボーンだと確認すると奈々はへなりと尻餅をついた。安心して気が抜けたらしい。
「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ。ちょっと安心したら気が抜けちゃった……リ、リボーン君、その格好…寒くないの?」
ようやくハッキリとリボーンの服装を上から下まで視界に入れると一層体感温度を低くしたようで、奈々はぶるりと身をすくませた。
寒々としたリボーンの服装──黒のキッド素材のバルモラル・ストレート・チップの靴に黒のパンツ、結び下げの黒いタイの下のシャツは白のレギュラー・カラー・シャツでフレンチ・カフの袖は白金のカフ・リンクスで留められていた。そしてその上に締めているのは物々しく黒いショルダーホルスターに装備された安全装置付きの拳銃である。光を吸収するような鈍い色をしたそれは常に実弾がフル装填されている。リボーンのそのある意味ドレッシーないでたちを破壊するでもなく、一種の緊迫感のような、一般的には到底持ち得ないであろう奇妙な空気をまとった愛獣のレオンが彼の首まわりを暖めるような格好で跨いでうろんげに奈々を見つめている。
──ようするに芯から凍える寒さの中でリボーンは上着を身につけていなかったのだ。奈々に指摘されてようやく自分の格好を顧みたリボーンはしかし何でもない他人事のように言った。
「ああ、着替え(コスプレ)の最中だったからな。だがそれほど寒くもねーぞ」
「そ、そう…なの? でも………あ、リボーン君ちょっと待ってて。」
実弾入り拳銃を露骨にぶら下げて住宅地を闊歩してきたことに突っ込まないところは沢田家において、最早『天然』を飛び越えた奈々の『美点』である。その奈々はリボーンの姿をまじまじと見ていてフと今日買った物が脳裏をよぎると、破れていない方の袋を引き寄せて中身をガサガサと漁った。出てきたのは黒地に白のピンストライプが入った包装紙だった。それを封するための白く幅のある飾りリボンは蝶々の形に結わえられていた。
「ちょっと早いけど…リボーン君、どうぞ開けてみて」
無表情のまま事務的に受け取ったリボーンは素直にその包みのリボンに手を掛けた。シュッと小気味のいい音をさせて白いラインが光沢紙のうえを、舞い降りて間もないあわ雪のように駆け抜ける。中から出てきたのは両手の平に収まる長さの白いマフラーと、上等なグレイの大人用鹿革製グローブだった。マフラーの方を指さして奈々は言った。
「レオン君にはこれ。本当はお人形用なんだけど…どうかしら」
奈々の気持ちを酌んだリボーンは、包みからマフラーをつまみ上げると右肩に乗っていたレオンに慣れた手つきで巻いてやった。短くもなく、長くもない丁度の尺にレオンは首を少しかしげると二、三回目蓋を上下させて短い首をしならせ硬い唇をリボーンののど元へ押しつけたかと思うとそのままぱったり寝入ってしまった。まんざらでもないようだ。白いマフラーにグリーンの鱗色が際立って映えたの満足した面持ちで奈々は見つめた。そして…と今度はリボーンの方へ向き直る。
「リボーン君にはこれね、ごめんなさいね。今のリボーン君の格好だったらやっぱりマフラーの方が良かったわね」
マフラーの温かさでぬくぬくしているレオンの満足げな顔と未だ寒そうなリボーンの首周りを交互に見やって奈々は言った。
「けどオレはママンの選んだもんなら何でも嬉しーぞ」
真顔ですんなりそう言ってしまえるのが、日本男児にない生粋のイタリア男の強みである。リボーンは改めてイタリア語で短い礼を述べるとキュッと慣れた手つきでグローブを填め、握って開いてをくりかえして包み込まれる温かさの感触を確かめた。そのときリボーンが口に出した「悪くねーな」は、これでも彼のなかでは特別賛辞の言葉である。
「そう言ってくれると嬉しいわ〜。リボーン君、以前ツッ君に手編みのミトンをくれたでしょう?ずいぶん遅くなったけどこれはそのお礼ね、だからちょっと奮発しちゃった。あのミトン、細かいところまで凄く綺麗に編んであってびっくりしたわ〜」
ボンゴレ科学の総力を結集しても敵わないであろう最先端技術の粋を集めて構成されているツナ専用ミトンを「ちょっと汚れてきたわね」と単純な動機でひょいっとつまんで洗濯機の中へほうり込み、ガーガー洗えてしまうのは後にも先にも奈々一人だろうとリボーンは思った。だが敢えてミトンに特殊な性質があることを口に出そうとも思わなかった。
「ああまではオレも作れねーが普通のミトン編みくらいならワケねーぞ。今度ママンにも教えてやる」
「本当?それならお願いしちゃおうかな。ツッ君の見て欲しそうにしてたからイーピンちゃんにもミトンを編んであげようと思っているの」
それを聞いてリボーンは幾分か声のトーンを落として言った。
「ママン、格下の馬鹿牛にはやらなくていいぞ。時間の無駄だからな」
「牛…?あ、ランボ君ね。どうして?」
「格下にはオレから身分相応のモンをくれてやるからだ」
「そう?ふふ、お友達からプレゼントを貰えるなんてランボ君羨ましいわね〜」
ランボがミトンを欲しがったあかつきにはリボーンが友情のしるしとしてランボに飴玉ではなく鉛玉をくれてやるのは明白である。
ランボの前でリボーンが銃をぶっ放すのを奈々は度々見る機会に恵まれているにも関わらず、彼女の中でリボーンの地位は『分別をわきまえた優秀な家庭教師』のままであった。阿鼻叫喚のるつぼであるあの大騒ぎは子供達にとっては遊びの範疇で、間違ってもリボーンがランボを射殺することは無い、と思っていることが確信できる安穏とした発言である。リボーンが沢田家の中でそんなヘマを犯すことはしないという点である意味正解だが、ランボにとっては生存の危機に心臓と胃がついていかないため、何としてでも奈々には否定して欲しいところである。
「すまねーなママン。色々貰っちまって」
「私こそ、リボーン君。いつもツナをありがとうございます」
奈々はいまだ尻餅をついたまま女座りのしどけない格好でぺこりと頭を下げた。
「荷物持つぞ。レオン、仕事だ」
リボーンの短い号令に眠りの底から呼び出されたレオンがうにょりと柔軟なからだを伸ばして伸ばしてあっという間に大きな袋ができあがった。見た目は海外ホームドラマに登場する類の腕に抱えて持つタイプのクラフト地の紙袋そのものである。唯一規格品と違っているのは表面に大きな二つの瞳がキョロリキョロリとせわしなく動いているところであった。6歳のリボーンよりも興味津々の子供じみた視線を惜しみなくレオンに注ぐ奈々は、少女のように手を合わせて感動をあらわにした。
「破れた袋のぶんはここに入れるんだぞ」
奈々の感嘆の声に得意げにもならずリボーンは丁寧にボトルや食材をレオンに詰めながら淡々と言った。奈々も素直に二つ返事でその指示に従う。しかし口元には母親特有の自然と拡がってゆくような笑みが宿っていた。堅いコンクリートに落としてしまったにも関わらず、中身は全て無事だったので奈々は胸をなで下ろし、すべてを移し替えるとリボーンがひょいとレオンごと軽々かかえ上げた。左手には先ほどまで奈々が持っていたビニル袋が握られている。おかげで奈々の荷物は自分のショルダーバッグだけという軽装さである。ようやく腰も回復したので奈々は汚れを簡単に払って両手を組み、上にくいっと上げて伸びをした。
「リボーン君大丈夫?けっこう重いのよ、それ」
「わけないぞ」
「そうなの…?でも本当に来てくれてありがとう。お礼にパーティーは腕によりをかけてご馳走を作るわね。リボーン君何か食べたいものある?」
「その必要はねーぞママン」
未だ頭一つ分背の高い奈々を視線で仰ぎ見て、リボーンは言葉を続けた。トレードマークでもあるソフト帽を浅く被っているので奈々からはリボーンの表情をうかがい知ることは出来ない。表情を読ませることをよしとしないヒットマンがそれを計算に入れているかは本人のみぞ知るところである。
「レシピを置いてきた。ツナは手伝いに来たランチアとそれ見ながら作ってる」
「あら、でもイタリアお料理の本なんて家にあったかしら?」
「ちげーぞ。オレが書いた」
またしても奈々は心の底から感心した。そんな奈々の脳内イメージでは『家庭教師』という職業は一般規格を飛び越え最早スーパーマンに限りなく近い。
「リボーン君ってなんでも得意なのね〜」
「カテキョだからな」
「ふふ、そうね。でもツッ君の手料理なんて久しぶりだわ〜」
ホワワンというサウンドエフェクトがほとほと似合いそうな主婦歴云々年の奈々が嬉しそうに顔をほころばせた。その様子をリボーンはソフト帽の下から覗き見て、らしくもなく何かの意地に任せて口を開き、しかし声のトーンは単調を保ったまま言葉をかけた。
「ママン」
「なに?リボーン君」
「……Le chiedo scusa.」
「リボーン君?」
「ママンは仕事が忙しいのにいつも騒がせてすまねーな」
左手の買い物袋を押し上げ、ソフト帽のつばを下げてリボーンは目元を隠した。それを見た奈々の瞳が優しくゆるめられた。
「…私もね、リボーン君がツッ君に教えてるイタリア語を聞きながら勉強したのよ。私からリボーン君にはね…そう、Grazie.」
リボーンはゆっくり顔を上げて奈々を見た。視線がようやく交じっても、奈々は相変わらず口元に笑みを宿らせてにっこりと微笑みかえしていた。陽の光のようなやわらかい笑顔だった。
「あの子が何かひとつのことについて一生懸命やれているのはやっぱりリボーン君のおかげだと思うの。だから、Grazie mille.」
奈々の流ちょうな感謝の句は、たちまち深層の闇にからめ取られ、辺りは何事もなかったかのように再び沈黙が舞い降りた。しかしそれは奈々にしてみると心地の良い沈黙だった。その沈黙を保持ししたまま奈々の歩調に合わせてリボーンは車道の横隣を歩きつづける。二つの影に重なって足音がひとつだけ、コツンコツンとコンクリートに響いて消える。その耳さわりの良いリズムに、奈々は昔一緒に歩いたツナとの帰り道の思いでをかさね見ていた。
初雪のこおるようでもどこかフワフワした幻想的なしろい空気。奈々に電灯の明かりの下にはお化けがいるのよ、と驚かされてリンゴのように真っ赤な頬をぷくっと膨らませながら地面をおぼつかない足取りで進む可愛い息子の横顔。ふてくされていても幼いツナは奈々のロングコートの裾をけして離そうとしなかった。それを苦笑混じりに見かねた奈々はツナの前に両膝を折ってしゃがんで、ゆれて今にもこぼれそうなツナの瞳を優しく受け止め、そして──
「そうだ、リボーン君。その荷物の代わりに持ってほしいものがあるんだけど…いいかしら?」
両手を合わせてお願いするポーズで奈々はリボーンにたずねた。
「いいぞ、どれだ?」
「はい」
奈々がちょうだいをするように差し出したのは左の手のひらだった。買い物袋を破ってしまってから手袋をはめ直していなかったので、白く細い指先が少し赤く霜焼けになっている。
一瞬の硬直のあと、何も言わず、リボーンは奈々に右手の袋をそっと預け、そのまま手のグローブをするりと取り去り丁寧に添わせるようにして奈々の差し出した手を優しく包みかえした。角ばっていても6歳児の温かさを持っているリボーンの手のひらである。リボーンの体温が伝わり、奈々の手がじわりと徐々にほぐされていった。
「わ、リボーン君の手ってあったかいのね。むかしのツッ君を思い出すわ〜」
小春日のような笑みをころころと浮かべて奈々はひとり嬉しそうにつぶやいた。あのころの息子の体温をそのまま受け継いだかのような心地よい温度だった。
「さ、帰りましょ」
「…Grazie per tutto quello che hai fatto per me.」
「こちらこそ、リボーン君」
──しんしんと降る初雪の向こうにふたつの影がうっすらと消えていった。
《あなたが私のためにしてくれたこと全てに感謝します。》