「ママン」
夕食の洗いものもそろそろ終わりにさしかかったころ、奈々はうしろに息子より年上の男の声を聞いた。
「あら、リボーン君?お風呂わきましたからどうぞ入ってね」
「今日は初日だし、ずっと住み込みでやっていただけるのに、こんなに起きてもらっていたら悪いわ」
奈々はさいごの皿をまめまめしく乾燥棚へおくと、濡れた手をエプロンで拭こうとシンクからはなれ、少しリボーンの方へ身を寄せた。
「ツッくんのことよろしくお願いしますね」
あらためて向き直り、ほがらかな笑みをうかべる奈々の顔を見て、リボーンはごく自然に、奈々の手を取った。洗いものを終えたばかりの手は、かたちのよい彼の眉を少しだけ険しくさせた。
「ジャッポーネの水も冷たいな。」
リボーンは今日はじめて奈々にむかってほほえみかけた。それはツナにみせていた、まだかわいげの残る笑顔ではなく、あらゆる経験を積んだ男の不敵な微笑そのものであった。だが、自他共にみとめる危機感のうすい奈々に、リボーンのこのときの真意を感じ取ることは到底できるはずもなかった。
「ママンは風呂に入らなくていーのか?」
「あ!そういうことね!ふふ、リボーン君はお客さまだし、私に遠慮しないでね。先にはいってくれて良いのよ?」
夜も遅く、疲労もそれなりに溜まっているのだろうが、それをおくびにも出さない奈々の様子にリボーンはいっそう微笑みの色を強くさせる。
「……家光もイイ趣味してんじゃねーか──見直したぜ」
「??…リボーン君、私の夫を知ってるの?」
「──今まで黙ってたわけじゃねーんだが、言う機会が無くてな。イタリアでカテキョやってたときに会ったことがある。そこで色々教えて貰ったぜ。ツナのことも、勿論ママンのこともな。」
「そうだったの!!あの人ったら一度出ていったらぜんぜん連絡くれないから私も心配なの。──あの人は元気にしてました?」
「元気にしてたぜ。ママンとツナのこと宜しくってな……」
リボーンの目が暗くひかる。しかし奈々は久々にきいた夫の名前に喜び、すぐさきに忍んでいる危機には気がつかなかった。
──── 一方、二階では初日から特殊弾に撃たれて筋肉痛を強いられたツナがベットの上でうめいていた。
「ちっくしょ……なんなんだよあいつ……いてててて…」
立ち上がることもままならないのでベットに沈むしかなかったのだが、次第に喉の乾きを覚えた。 1階に下りるということは、すなわちあの憎たらしい家庭教師と顔を合わせる可能性がある、ということだ。それだけは何としても避けたかったツナは、考えあぐねたすえに、他人の家に忍び込むようにそろそろと廊下を下りて素速く戻ってくることに決めた。
ギィギィと階段の音をこの時ばかりは大きく感じながら、ツナは一段一段踏みしめるようにゆっくりとおりていった────
彼の差すような、瞳を正面からうけた奈々は、そのまなざしの奥に潜む熱にようやく気がついた。
「リボーン君…どうしたの?お昼とはすこし違うみたいだけど…」
「そうか?俺は変わってねーぞ、変わったのはママンのほうじゃねーか?」
「わたし?」
驚いた奈々は目をパチクリとしばたたかせた。思わず口にやった手から拭ききれなかった水滴がしたたり、いつの間にか息がふれあうほどの距離にいた彼のスーツにポタリと染みこんで深い色あとをつくった。
「ああ、夜の方がママンはきれーだぞ────あの男の女にしとくにはもったいねーくらいにな」
シンクの上に付いた蛍光灯の物寂しいあかりの下で、カチャリ、と陶器がすれあう音がした。 奈々が乾燥棚においた食器に手を触れたのだ。彼女はこの時ようやく目のまえの成熟した男の姿に気がついたかのように、困惑の色を隠せない目でまっすぐに彼を見た。リボーンを。
「……駄目…」
それしか言うことができなくなってしまったように、奈々は形の良い唇からか細い息をはく。
「──いいじゃねーか、何年も帰ってきてねーんだろ?」
「そういうことじゃなくって……」
リボーンの、自分を撫でるような視線にいたたまれなくなった奈々はサッと頬を桜色に染める。うつむいた頬にサラサラと絹のような色素のうすい髪がかかった。
「ママン…俺のことが嫌か?」
ちいさな両手を胸にやってどうしたらよいのか分からなくなってしまった奈々の耳に落ちてきたのは、まるで歩き始めたばかりの幼子のようなあどけなさを含んだ声──寂しさをむりに押し殺して、躊躇いがちに口に出した。そんな声だった。
奈々は顔をあげた。
「そんな…ただ……私のことはどうでもいいの…あの子が少しでもお勉強ができたらって…そうおもって…」
それに続く言葉を敢えてリボーンは言わせようとしなかった。
すべて都合の良いように仕向けるためだった。
奈々の唇がピクッと震えた。目の前の男が自分の両肩をはさむように腕を伸ばしてきたのだ。
「ママン──」
「リボーン君……私はあなたにこういうことをお願いしたんじゃないわ……」
しっかりしなさいと心の中で自分を叱責しながら、奈々は震える唇をなんとか動かそうとする。だがリボーンはそれさえも、楽しみのひとつと観ている風に、飄々としている。
「気にしなくていい。これは俺が好きでやってることだからな…カネはいらねぇ」
「違うの……リボーン君……お願い…だから」
「ママン、たまにはハッキリ言った方がいーぞ。俺だったらママンを喜ばせてやれるのにな」
リボーンのたくましい身体が奈々の華奢な身体を覆うようになった。ぐっと迫ったリボーンからとうに逃げ道を塞がれたことを知り、気を抜けばこの行為を受け容れてしまいそうになる黒くしたたかな瞳を極力を見るまいと彼の肩口の向こうを見やった。──せめてもの抵抗だった。
闇のように黒い男はクッと可笑しくて堪らぬように暗く嗤った。
「ツナは寝てるぞ……悲鳴なんか上げて起こしたらかわいそーだろ?」
奈々の思考をこのときはじめて読んだリボーンは、栗色の澄んだ瞳を潤ませる愛玩すべき小さな生き物を見ているような気分になって、言葉を続ける。
奈々は上の階でねむる愛しい息子のことを想った。
(ツッくん………)
「心配すんなママン。オレは雇ってもらった礼がしたいだけだからな──つらいことはしねぇよ」
リボーンの腕が伸びてきて奈々の細腕を絡め取り、彼女を後ろへ向けさせる。後ろから包みこむようになって、家庭教師は耳元で闇のように先の見えない声色で優しくささやいた。
「ただ俺に全てゆだねてくれさえすればいい──」
くりかえされる彼の声といっしょに、冷たいような熱病のような感じたことのない吐息が耳にふれてくる。奈々のなめらかな肩がビクッと小さく跳ねた。