ひろくて大きな空間に立っていた時に、俺は意識を取り戻した。
星も見えない現実離れした空間で闇を後ろ手に、質量を感じる異質の闇を両手に抱きながら立っていた。(そうだ、俺はゆめのなかに生きている)
温かでねむい色をした闇がのそりと動く。手のひらで微熱を感じて、指先では鎖骨のゆるやかなこわばりを感じた。少し重い。それが大きく呼吸するたびさらに重く感じる。落とさないように注意をはらって抱える位置を変えた。ふとその拍子に、冷たく濡れたクチバシと爪の鋭い片足がツと抜き出た。
俺が抱いていたのは一羽のからす。純粋にくろい。十分なひかりの加護を受けなくとも、その体躯は絹よりも滑らかに潤んでみえた。
そのからすには当然あると思ったものがなかった。ブラックパールの瞳。含んだ空気と羽根を通しても分かる胸のあつみ。風を孕んだことのない、それは綺麗なひと組のつばさ。それらに隠れてどうしても見つからないもの──あるはずで完璧にたりないものは片足だった。
──そのあしでどうやっておまえはたつの?
視線を落として問いかけた途端、からすはわたのような体毛をぶるりと機械的にふるわせた。俺は慌てて自分の服でちいさなからだをそっくり包んでやった。からすは抵抗しなかった。けれど、一対の小さな瞳から油断なく見られていることを俺はハッキリ感じとった。思わず抱くうでに力が入る。返答のように俺の指先にからすの爪が食い込んだ。
ぷつりといやな音がした。
「痛ッぅ…」
自分の身体が傷ついた事を知った途端、反射的に苦痛を漏らした。からすの爪が静かに離れたあと、肌の上をまるくつぶらに溢れた血玉は金だった。からすは俺に抱かれながら素知らぬ顔を崩そうとしない。俺は自分の血であるはずの黄金を見ておかしな気分になった。頭のてっぺんからつま先までがあつく火照ってやりきれない。赤ん坊よりも無垢な密は血管という血管をすみずみまでつらぬきゆき渡る。それに恍惚とした俺は心の何処かとおくから他人事みたいに自分のことを見つめていた。
からすはじっと俺を睨めつけている。人の視線が苦手な俺だったけれど、その視線をぼんやりと受け容れることに何の抵抗もなかった。そのときすでに俺はからすの瞳に魅入られていた。底がみえないくせに、とても澄んだきれいな瞳。姿形は幼いようでも纏う意識は恐ろしいほどたくましかった。
「お前一体──」
ふらふらに浮わついてみょうな気分のまま俺は濡れた目を細めてからすにたずねた。からすは俺の視線を自分の片足に誘導した。足のない付け根をくちばしでつつく。何かのサインみたく無機的にくりかえしている。それを見てなぜか俺は涙があふれた。まるで俺が足を引き裂かれたみたいにつらかった。そして悲しみと同じくらい、このからすを愛おしいと思った。一緒にいたい。このからすとなら辛くはない。俺は確証もなく信じた。からすは鳴くことも、飛び立つ様子さえ見せず、俺をふたたび鋭いひとみで見上げていた。俺の意志を呑みこんでもなお微動だにしない。
からすは、何もかも投げ出して身を任せてもいいと俺にさえ思わせる、圧倒的な黒をまとわりつかせていた。羽根はどれも力強く、いっそ珠玉のようでもあった。
──遂に、からすは口を開いた。
『オレはお前を全て識っている──だが、一つだけ、おまえの名は識らねぇ』
夜の空間いっぱいに朗々と響く透きとおった声だった。
さも当たり前のように、そして高慢にからすは言った。俺は意志を奪われながら、ようやく声を取り戻した。
「…俺は…お前のすべては知らない…」
──なぜそのとき次につづく言葉を言えたのか、俺にすらわからない。ただ、からすだけは俺の言葉を永くふかく望み、だからこそいつまででも答えを待っている気がした。
「でも、お前の名前を知ってるよ。お前の名前は──」
俺はたどたどしく彼の名前を唇にのせた。生まれ変わるその名を。鋭い目のからすは俺の言葉を聴くなり、ほんのかすかに微笑った。
『なら話は早ぇ。てめえとオレと、どっちが互いを見つけられるか、勝負といこうじゃねーか』
──ゲーム好きの血が騒いだのか、からすは言った。
「でも俺、ダメな奴なんだ。一人じゃ何もできないんだ」
──おれはおずおずと言った。
『知ってる。だがやるんだ。勝負にならねぇが、やる意味はある。また会うときはオレが『お前』を教えてやる、代わりにお前は…』
代わりに俺は叫んだ。からすが言う事じゃない。そう思ったから。
「俺は、お前の名前を呼ぶよ。たとえ一人だけになったとしても、いつでも、お前を捜している。待つのは好きだ。だから、俺を探しに来て」
『──上等だ』
俺は息をのんだ。
目の前でからすのふたつの翼はほそく結われて引き締まり、たくましい風切り羽はあたたかな指先にやどっていった。からすはみるみる大きくなり小さな子供に姿を変えて、闇色の羽を織りこんだスーツを身に纏った。したたかな黒羽色がきれいに照り跳ねるグリーンのツヤは、ぬめる気だるげなカメレオンに形を変えた。
完全に名残を消したからすは俺の腕からひらりと簡単に飛び降りた。そして俺が気がついたときには二本の足でしっかりと固い地面を踏みしめていた。
(──もうこのからすはどこへでも行ける)
俺はいい知れない不安に襲われて彼の手を取ろうとした。だけど、引き寄せることはできなかった。別れがせまりお互いが急速に離れてゆくなか、からすは…からすだった子供はそれでもいちど結んだ俺の手を握り返すことはしなかった。
最後にもうひとつうっすらと笑みを残すとあいつは先に光の中へ消えていった。その笑みに不意を突かれた俺は、視界がぼやけるのをこらえきれず瞑目すると正反対の白い世界へ引き戻された。
頬が凍るように冷たかった。目元をさわれば窓枠の結露に似た朝露が俺のほほを濡らしていた。窓から目をそらして天井をあおぐ。昨日起きたときと、今日の部屋の様子はどこか違っていた。迫ってくるような、現実味があった。
夢のおわりはつらいけれど、悲しくはなかった。
ただあいつの目を見て分かった。きょうこの日、世界に何かが生まれたことを。
(そしてこれから、俺の何かがあいつによって死ぬことを──)
──ぼんやりとした頭の上で電子音がイナナくか、ベッドから体を起こしてまどろみを失ってしまえば、俺はきっと夢のことを忘れてしまう。
母さんが俺を呼ぶ声が聞こえた。
そのふとした瞬間に夢ははかなく消え去ってしまった。
でも、たったひとつだけ──家を出て腕のぬくもりの優しさがつめたい風に攫われるまで──さいごまで我慢強く覚えていたことがあった。
10月13日。
──その夢を見たのは俺の誕生日の前日、小学六年の秋だった。