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「……レオン、お前太ったんじゃねえか?あいつに何食わされたか知らねーが…今日からダイエットだな」
左肩でまどろんでいる相棒にむかって、家庭教師はたしなめるように言った。





十月九日のイタリア。ボンゴレ屋敷のひとつにリボーンは居る。
時は朝、もうそろそろ柱時計の針が七時を指そうかという頃だった。今日は時を超える日であり、言葉を話せないレオンの代弁をしてやる日でもある。リボーンは読んでいた新聞をたたむと肩に乗っていた相棒を自分から離れるように促した。レオンがテーブルの上に落ちついたのを確認して、薄い眼鏡をかけ直す。
時計の音がいやに響く。

チクタクチクタク──チク。

止まらないはずの針が止まった。変調の前兆。途端、レオンの緑色を中心にくにゃりと景色がまわった。






──次にリボーンが見た時計の針は午後の二時を指していた。
極東の国、日本。住み慣れたあの沢田家のリビング。リボーンは目の前に転がる十年バズーカと惨状には目もくれず、段数をも把握している階段を革靴のまま上る。音もなく扉のノブを回すと──
原因が、居た。
逃げもしなかったが気づきもしない。身をもって重要さを説いてやったはずの警戒心は微塵もない。


「──誰かと違ってレオンはかわいいなー。ほらほら、もっと食べな」
十年前の生徒はしゃがんだまま後ろを向いて、尻尾をくるんと丸めたレオンに過分の餌を与えている。その弛みっぱなしの顔が目に浮かぶようで、家庭教師はこめかみをおさえた。
「………」
リボーンは無言のまま、背後からツナの顎を鷲掴んで有無をいわさず真上へ傾け、自分の方へふりむかせた。そのさい掴んだ頬をおもいきり寄せたせいで、へらへらとゆるんでいた顔が阿呆の間抜け顔になった。
「ぎゃっ!…どっ、どちら様!?」
ぺたりと尻餅をついたツナを無表情のまま、にらむ。
「ヒトの相棒肥えさせんな」
「………もしかして…リ…」
下にいる奴に来られても面倒だ、とリボーンは続きを言わせず慣れた手つきでやんわりと口をふさぐ。それに促されたツナはすぐ脇にあるベッドの縁に頭を預けるかたちになって、それきり動けなくなってしまった。誰よりも知っているはずなのにそれとは信じられない顔が近づいてきた。ツナは我知らずぎゅっと目をつむった。その仕草に誘発されてリボーンはいじわるく口角をあげた。あまり歓迎されない思考をまとわりつかせた彼の気配が、レオンの仕返しとばかりに耳元でひっそりとささやいた。
「──先生の言うことはしっかり聞くんだぞ。…でなけりゃお前、すぐ死ぬからな」
静かで、とてもよく通って力もある…なのに、冷たい手で心臓を直接触られたような落ち着かない気分にさせる──それが十年後の彼の声。
息することも止められてしまう。
ぱっ、とおおきな瞳をひらいたツナは、重たい言葉を吐いた彼がそれでも揺らがない目をしているのを見てたちまち顔を青ざめさせた。生まれたときから人の何倍も察しやすい心。超直感が体もろとも貫き、今とは比べものにならない十年後の異常なプレッシャーが何の防御も為さないツナを襲った。

(…嫌だ……死にたくない…よ…)

ふさがれて行き場のない温かな吐息は殺し屋の手のひらを熱くさせて、かたかたと震えはじめた肌の熱は家庭教師の感情に染み入った。
淡い色をした教え子の目元がじわじわ涙目になっていく──
気がつけば、緊張で自由にならない体のかわりにツナはコクコクと一心に頷いていた。
十年前の精神をすこしだけ哀れに思って、口をふさいでいる男は「冗談だ」と言ってやろうかと思ったが、自分が経た時をかえりみてあながち間違ってもいなかったのでやめておく。そのかわり、目の前のもろい鳶色につられ、自分の瞳が少しずつやわらかくなっていくのを許すことにした。

「いい返事だ」

ふっとツナの顔に男の影がおりてくる。考えの読めない家庭教師に怯えたツナは反射的に目をつぶってしまった。闇のなかで暗殺者の手は凍えるほど冷たくて、少し重かった。角ばっていてもきめの細かな手のひらに口元を押さえつけられたまま、やや時が過ぎる。ツナは何の変化もない様子をいぶかしむと、そうっと薄目をあけた。

「──!」

ツナのやわらかい唇のさきにひきしまった手の厚みがあり、その先に彼の唇があった。

体の震えを止めてやるだけのこと、『リボーン』なら絶対にしないようなことを十年後の『彼』は平然とするのだった。
信じがたい現実を体感してしまったツナは驚きに思考をやられて声も出せない。視界すら捕らえられる。(長いまつげ。切れ長の瞼。蠱惑にぬれた黒い瞳──)考えが真っ白になって赤面を隠すこともできない彼を更に追い立てるように、最後、リボーンはちゅ、と音をさせるほど深く口づけた。自分の頭をベッドに押しつける元をしっかり見せつけられたツナは意識がくらむほどの眩暈をおぼえた。
その行為の終わりまでリボーンの様子に変わりはなかった。
(──今度はお前が探す番だ、ツナ。)離れる間際、遙か前に交わした約束を、からすの色をした男はついでのように耳元で告げた。

「またな」

過去と未来はつながるかどうか分からない。だから返事は必要がなかった。
ただ別れが来るその時まで、目をまるくした生徒の瞳が持っている、自分にとって特別な虹彩をリボーンは飽きずに眺めおろしていた──。









リボーンは目を開いた。
湿気の薄い空気が黒髪にさわる。その心地に、戻ってきたのだと実感した。

イタリアの言葉に染めあげられ、大仰に着飾る一面トップ記事。それには目もくれず、紙面の上隅に小さく載ったあれから十年あとの西暦をながめる。
さっきとは打って変わり、つまらなそうで色のない眼差しをしている。
ヒットマンと家庭教師を兼ねた希有な男の思考は、見た目だけではすこぶる計りづらい。それを知っている者がこの場にいれば、とおくの思い出を銀縁眼鏡の奥でかいま見ているように感じられるのかもしれない。しかし、ヒットマンはふとすれば忽ち興味をなくしたようで、すでに手元の新聞に興味をおくことはなかった。
重厚な柱にかけられたネジ巻き時計の黒針がカチリと鳴って七時をさす。
そのときには新聞は適当に折られ、ぞんざいに脇のデスクへ放られていた。


背は徐々に温かくなってきていたが、陽がイタリアのすべてを照らすにはもう少し時間がかかりそうだった。

家庭教師は午後からの激務まえに仮眠をとるべく、五分前と変わりない朝の陽ざしに体をあずけてまぶたをおろす。ねむるまえに部屋の気配をかるく洗うと、さっきほうった新聞がもぞもぞと遠慮げに震えていた。
正体はわかっている。
それでも、眼鏡のあいまから薄く様子を見つめれば、折り重なった廉価な黒インク字の下から鮮やかなエメラルドグリーンをしたカメレオンが、やけにつやつやした鼻づらを先頭にのっそりと這い出してくる。眠たげで締まりがなく、おまけに何処かまるっとした相棒の顔を見てリボーンはひとつ溜息をついた。

「太っちょレオン。おまえ今日からオヤツは禁止だ」

主人のあまりにひどい宣告におどろき口をぱっくり開けたレオンはキョロキョロと目をまわしてしまう。それを見たリボーンは念をおす代わりついでに意地わるっぽくニッ、とわらった。
そんな仕草をしてみても、十年を経た彼の表情は心の深いところから慈しみをあらわすような大人のそれで、もはや子どもらしさは少しもなかった。




──ツナに初めて会ってから十五年が経つ。

その月日はたぶん、春風にゆれる絹のカーテンよりも薄くて、イタリアの血気盛んな陽ざしをさえぎる大雲よりひろく厚い。けれど──教師の立場からみれば辛くというべきか──変わらなかったものもあるのだ。
リボーンは予想通り一筋縄ではいかなかった過去を苦笑に伏せて、極めてうすい度のはいった眼鏡を片手で煩わしそうにはずしサイドボードに置くと今度こそ陽のなかにある背もたれに凭れて瞳を閉ざした。そうすると、十年前にいってきたばかりだからだろうか──ふっと、長く暮らした日本での思い出が包みこむようにひろがってゆく感覚にとらわれた。

春にやさしく抱かれて産声をふくんだ、あたたかな土のやわらかさ。夏の、だるさも熱意も一緒くたにして洗いながすにわか雨。秋のすじ雲と夕暮れがもたらした、心がほどかれるようなとびきり上級のしなとの風。そして、冬の澄みきった夜空をのぼる白い吐息にちりばめられた幾千をかぞえる星の煌々火──それらは、光を翳(かざ)したナイフのように鋭すぎる五感をそなえた暗殺者の肌にさえ優しくなめらかな絹の感触を宿らせ、絡まりあってふれあう音は母体のなかにたっぷり満たされた心地よい羊水のようで彼を酔わせる。
いま、歴代ボンゴレの顔すがたをその身に映してきたうすい吹き硝子のさきにはシチリアの海がひろがっている。
そのさざ波はぶつかりあって何万回も飛沫をあげる。それらの声を殺し屋は数えきれないほど聞いてきた。(まるですべてがヒトのようだった。)
だが──寒空の日でさえあつく情熱的なイタリアとちがって日本の四季はひかえめで、つかの間にしか人の心にうつされない儚いものだけれど、思い返せばいつの瞬間だってふたつとない美しいものだったのだ。記憶をたどってやってきた景色たちの奔流をリボーンは現役ヒットマンの精神としてあるまじき余裕をもってひろく受け容れ、そのままゆだねるように思いを馳せた。
悪くない気分だった。
そして気がつく──ひょろくてまったく頼りのない子どもの声に。合意のうえで卒業させた今でもダメ生徒の感じが抜けきらないおとなの横顔がいつも隣にあったことを。今でもそれは代わるものあらず、大空が統べるイタリアのなかでも自分のそばに彼はいる。

…否、居てくれるのだ。(あいつは呪いも何もかも受け容れた。)

(──…バカツナ。)

突然ふってわいた感慨をもてあました彼は人のせいにして、板についた不遜げな態度をあらわにしながらトレードマークのソフト帽をかぶって目元に影を据える。するとそれを呼び水に、たちまち無表情を口元にはりつかせるとすうっと眠りにおりていった。






主人の膝のうえで一緒にまどろみへ入ろうとレオンもつぶらな目をうとうとさせる。しかしある気配に気がついて嬉しそうにシッポをクルンとまるめた。レオンは眠りにおりていったばかりの主人を窺ってみてから、何を考えたのか、のそのそとサイドボードを上っていって天板にたどり着くとそこへちょんと腰をすえた。口をパクパクと動かして喉をならす。その様子は、扉のむこうから来るであろうヒトにすぐ気づいてもらえるように静かなアピールをくりかえしているようにも見えた。

とっとと、とっと──レオンの期待どおり、あいかわらず頼りない靴音がこちらへ近づいてくる。かのボンゴレファミリーのボスとは似ても似つかない、ゆるやかで飾りっ気のない声がする。


(──おはよう、リボーン)


──元生徒が恩師のほほに親愛のキスを捧げて目ざめのときを告げるまであとすこし。
オーク扉のむこうで淹れたての珈琲と紅茶がけぶるような香しい薫りをさせていた。