『整然とした愛』『優しさ』『親切』……とうてい似合わない言葉を内に包んだ花々に祝福され生まれてきた家庭教師がいる。
かたや俺に向けられたのは、『真実』『貴方を見つめる』『囁きに耳を傾けて』。
俺が並盛にいたときにハルから教えられた花言葉だ。誕生日になぞらえた花言葉ってものはどうしてこんなに甘い香りがするものばかりなんだろう。
累々と書類を積んだ重苦しい机のある執務室でひとりになってから、ふと思う。
何となく勘がうずいて机のはしに目を向けると、花瓶に一輪だけ飾られた名前も知らない奇麗な花がひとひら散った。…そろそろこの花も終わってしまう。
イタリアで、死をたくさん見ると思った。
耐えることはできないかもしれないけど、一緒に来てくれるみんなのためにも耐えてみせようと、そういう覚悟をして来たつもりだった。なのに、人の死はおろかこの執務室に飾られた花々が「死んだ」ところさえ俺は一度も見ていない。顔も知らない誰かが毎日毎日気を利かせてしおれる前に元気な花と取り替えてくれているんだろうけど…妙な気分だった。
俺の実家でもよく玄関に花が飾られていた。
完全に枯れるか腐ってしまう前に母さんが処分しても、土色に変色した花びらが花瓶の底にへばりついていたりして、咲いていた名残が目にはいってくる機会はけっこうあった。
ここはそうじゃない。死に近い世界ならではのタブーなのか、死の残滓を感じる余地すらない。小さな変化も不気味なほど管理されていた。役立たないと認識されれば忽ち排除され、何事もなかったみたいに代わりのものがその空間に根をおろす。まるで身体はそのままに首だけすげかわっていくみたいだ。
リクライニングに背をもたせながら、執務室を仰ぎ見た。
俺の部屋。俺のための部屋。俺だけの部屋のはずなのに、いつまで経ってもよそよそしい気分を味わうボンゴレボスの部屋。この部屋は花瓶と同じ、人間をそれ相応の華に見せるための器だ。だから中身が換わってもおなじことを繰りかえす。
この屋敷、ひいてはこの世界で管理されない「もの」なんて無いんだ。そんな中で6年暮らしてきた俺は、その異常に少なからず慣れてしまった。
会ったのことのない“俺の部下”のひとりが死んだことを整然とタイプされたインク文字から知った。1行すらあいだを置かずつづけざまに、ボンゴレボス十世へ忠誠を誓った“新しい俺の部下”の名前が記されている。
(ここでは何でも代わりがきくんだね。)
イタリアへ来たはじめの年に、そう呟いた。
長年俺の家庭教師をしてきた彼は、さすが、それを聞き逃さなかった。
(だがお前の代わりはいねぇ。分かってるな)
分かってる。分かってるよ。
けれど俺をボンゴレボスにしてくれている周りのみんなは、自分たちならば、代わりがいるというのだろうか。この身をやつした生涯ただ一人だけのお前ですら代わりが居るとでもお前は言うつもりだろうか。…言葉をして確かめたことはない。けれど、もしそう思われていたとしたら…。俺にとってみんなの代わりなんか居るはずない。代われる人間なんか居るはずがない。でもこれに限って皆わかってくれている自信が俺にはない。もしかしたらみんな俺をおいていってしまうんじゃないか。(友人の確かな痕跡もろとも塗りつぶすように、ちょうど同じ年端でみんなに背格好の似た人間が俺のまわりに背を並べる──)馬鹿な空想がぬぐえない。
10月13日が明日に迫っていた。
あいつを知らずに13回、「10月13日」を素通りして、あいつが傍にいてくれてから13度、その時その時の感情で彼を想った。
明日が来れば、彼を想わなかった年数を想った年月がようやくひとつ上回る。はじまりの記念日だ。いままで以上の想いをこめて何か贈ってやろうと、物ぐさな俺なりに先月からあれこれ考えていた。
けれどその日は結局、リボーンに連絡さえつかなかった。
*
「──ぁ…」
10月14日。俺はまたひとつ歳を重ねた。
嫌な予感がした。
とたんに机のアンティークな電話が鳴る。
手にすこし重い受話器を持ちあげて、耳をそばだてる。
電話向こうのボンゴレつきの医師は異様に落ちついた声だった。
彼からあいつの名前が出て、心臓が跳ねた。
瞳孔がいっきに開いたのがわかった。
声が出ない。胸がくるしい。涙があふれて息がとまりそうだ。
医師が言葉を結ぶより先に、俺は部屋を飛び出した。
走りづらくて仕方ない赤絨毯を忌々しく踏み越えながら別棟へ駆けた。
落ちつこうとする俺自身の声さえ振りはらい走ったさきの《Cure mediche camera》
──“医務室”と書かれた扉を息つくよりさきに開けはなった。
「あのまま死ぬのかと思った…」
「俺があの程度で死ぬか」
人払いをさせて二人きりになり、ベッドの脇にある丸椅子に腰掛けながら安堵の声を洩らせば家庭教師は読んでいた分厚いペーパーバックで俺の頭をたたいた。
「痛いって。やめろよ」
本をとりあげれば、今度はその大きな手が俺の頭を撫ではじめた。まるで聞き分けのない猫の機嫌をとっているみたいな扱いだ。顔を上げるのも何となく嫌で、うつむいたまま前を見ると逞しい大人の上半身に走る肩から腹までの包帯が毒のように酷く映って、思いがけず目をつむった。目を閉じると、応急処置をしてこの本部へ運ばれてきたリボーンの意識を失った血の気のない顔が脳裏にうかんだ。あの絶対的不利の状況で命を落とさないどころか戦況を覆すとはさすがアルコバレーノだ、と共闘した同盟のボスから讃辞を頂戴してもまったく嬉しくない。持ち前の回復力で意識を取り戻してくれるまで、その短いあいだでさえ俺は気が気じゃなかった。
「いつまで経ってもボス業は慣れねぇか?」
年下のくせにあっさり背丈を追い抜いていった彼の手から、大人びて控えめな体温を頬に感じる。幾分かやわらかくしているのだろう声の気遣いが胸に痛い。
銃弾の嵐のなか腹に2発、肩に1発弾をくらう大けがをしたくせに痛みもないようにみえるほど声色はまったく変わらなかった。
「そりゃ…慣れるよ。現にここで6年もやってきてるじゃないか」
年を経るにつれて、考えていることとまったく別のことを自然と口に出さねばならなくなった。でもできればこんなことしたくない。だって疲れる。言いたいことを言いたいままに、したいことをしたいままに、表に出せないのはつらいんだ。
今では、10年以上も一緒に暮らしてきたリボーンの前であっても自分の感情を表に出してはならなかった。
それがボスとしての役割だとリボーンが言ったからだ。
本をベッドの足元に放り投げて返すと同時に、気付かれないようにちいさく歯を噛みしめた。
「…そういえばリボーンさ、昨日誕生日だったんだよな」
(話すの、つらくないか?)
「一日遅れちゃったけど、なにが欲しい?」
(俺はお前の心配をしたいのに、)
「俺とお前の都合を合わせるのはちょっと面倒かもしれないけど」
(からだの具合を聞くこともさせてくれないのか。)
「年に一度の祝い事なんだし。前みたいに合同で祝おうぜ」
(なあ、心配でたまらないんだ。リボーン──)
「ツナ」
まったく落ち着きはらった声に呼ばれて、今日ようやく俺は彼の顔を正面から見ることができた。
「お、欲しいものあったか?なに欲し──」
口を噤む。リボーンが俺の手首を掴んだだけだというのに、自分でもおかしいくらい動揺して身を強張らせた。
「うわっ。」
腕を引っ張られて、前によろけた。すんでのところでベッドに両腕を突っ張り、重傷患者が身を凭せている上に倒れこまずに済んだ。
「な、なにす──」
非難の声をあげてとがらせた唇を、形のいい親指とひとさし指でつまみあげられた。
「誰もいねーんだ、体裁はいい。こっちから心を読んでやってもいいけどな、この距離で聞いてやるって言ってんだ。言いたいことはコイツ使ってはっきり言えよ」
アヒル口の格好になった情けない顔をしているだろう俺を笑うでもなく、かつて家庭教師として道しるべになってくれたあの顔をみせながら口を2、3軽くひっぱった。
「それとも言いたくねぇか?」
それは言葉の引き金だった。
「…なあ、俺はいつかひとりになるのかな」
リボーンが俺の口から手を放せば言葉は簡単に堰を切ってあふれる。
「俺の代わりはいないって、前に言ったよね? なら、俺以外の…ボンゴレボス以外の代わりは幾らでも居るの?」
(嫌だ。)
「俺はいやだ。みんなの代わりなんて必要ない」
(お前の代わりなんて。)
「リボーンの代わりなんて、要らない。欲しくない。お前がいい」
(誰かがお前の代わりに俺の側にいるなんて、耐えられない。)
「俺はそんなに頑丈な人間じゃ、ないのに──…」
徐々に感情の暴走をおこしかけていた俺を引きもどしたのは力強い腕の感触だった。
腰にまわされたそれに、ハッとなった。
怪我をしている。ダメだ。いまリボーンに縋ったら──そう咄嗟に思っても、彼の方から抱きしめて引き寄せる力を強められると、もう抗えなかった。おそるおそる彼の背中に両腕をまわす。身体を寄せると口でいくらまくしたてても落ち着ける兆候さえなかった心臓が、無音の世界に放り込まれたように静まりかえった。
ここにいる。今はいてくれている。それを肌で感じると少し冷静になれた。
「弱音吐いてごめん…どうしてもダメだったんだ…今日でまた1歳大人になったはずなのにさ…」
声がいやになるほどよく響いた。
いい大人にもなってこんな様子じゃ先が思い遣られるよな、と自嘲した。
ただ目に映るこの部屋の白くて物寂しい空気の色が怖かった。
ひとつだけの色に置いていかれるのが恐ろしくてしかたなかった──。
目を伏せれば視界の半分くらいを黒いもので塞がれ、不思議に思って影の姿をたどれば脇の小さなデスクに置かれていたリボーンがいつも愛用するソフト帽が俺の頭に乗っていた。
「おい。縁起を担げとは言わねーけどな…人の誕生日になに碌でもねぇこと考えてやがるんだテメーは」
白い部屋が帽子の影にすっぽり覆われて、呆れかえった声が耳の鼓膜にじわりとひろがった。
「ダメダメダメツナより先に死んでたまるかよ」
普段のリボーンの声なのに、今日はその普段さがたまらなくて涙が出そうになる。
「はは、だよね。」
その体面もなく年甲斐もなく泣き出すまえの無様な態度に容赦ない「バカ」のひと言を浴びせかけたリボーンは、それでも俺の腕をほどくことはしなかった。
*
15日の朝、リボーンは医務室から姿を消した。
「もう少し休まれて行かれた方がいいでしょうに」
リボーンが居なくなったことを伝えに来てくれた人の良さそうな看護婦が俺の隣で心配そうにつぶやく。
「絶対安静の静養も不必要だと思ってるんだよ。あの男は」
わずかにマットレスが撓んでいて、彼が横になっていた形跡がある他はまったくの空になったベッドを眺めながら苦笑をひとつ漏らした。
からっぽのベッドのへりに勢いよく座りこむ。子どもの頃から癖になってしまっている溜息をわざと大きく吐きだして、日本語でかるく悪態をつくと、首筋をおさえた。昨日最後にあいつが触れてきたそこが今でも熱っぽい。
「あの…ボンゴレ十代目?」
ふり向くと部下から目の遣り場に困っているような顔をむけられていた。普段は見せない、急にガキっぽくなった俺のしぐさに驚いたんだと分かって、内心あわてながら言葉を継いだ。
「うん? ああ、ごめん。なんだっけ」
「し、失礼しました…キャバッローネファミリーの遣いという方がいらしています。明日の予定はすすめてしまって構わないかボスにお聞きしたいと…」
「わかった。いつもの手筈でと伝えてくれ」
「はい、ボンゴレ十代目」
看護婦と部下がさがって部屋に誰もいなくなったところで、また大きな溜息をついた。気がゆるむ途端にでるこの悪癖は死ぬまで治りそうもない。
締め切った窓に枯れた木の葉が一枚かすれて落ちていく、秋の半ば。外の空気はどこまでも澄んでいるようだった。
昼寝を決めこむには丁度いい、誰かが呼びにくるまで寝入ってしまおうとあおむけに倒れこめば、むき出しになっていたベッドのパイプに後頭部をもろに打って撃沈した。
「いてて…嫌になるほどダメツナだなぁ、俺…」
頭をさすりながら力なく呻いた。元生徒がこんなことをしている間にも最強のヒットマンはターゲットを追って俺からどんどん離れている。
きっともう国内にはいないだろう。
誕生花になぞらえるような想いを確かめあったことはないけれど、あいつがこの世界に居ることさえ現実ならば、俺は、ふたりきりで会える誕生日が夢のように稀な出来事でも構わないと思った。