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秋が終わり、空を灰色一色に閉ざす冬がやってくる間際のことだった。
煉瓦造りの年取ったアパートメントのひとつを借りて俺は母さんと身を寄せ合うようにして暮らしていた。
ただ一人の肉親だった。
その母さんが、死んだ。


── SOLITUDE ──


「よし。これでひととおり終わったかな」
暖房を入れられないために外の気温とあまり変わらない部屋の中でかじかんだ手を拭いながら俺は部屋を眺めた。
向かい合わせに二脚ある椅子に挟まれてダイニングテーブルがあり、その上には古いラジオがひとつ。部屋続きになっているリビングには二人掛けのソファの近くにはサイドボード、その上にはシェードランプがひとつ。母さんの趣味だった刺繍やキルティングの布は少しくたびれてしまったけれどそのまま壁にいくつか貼ったままだ。
物心ついたときから何も変わらない見慣れた部屋は、改めて見ているからだろうか、今日ばかりはとても広い間取りに見えた。ここで20年以上暮らしてきたにも関わらず俺の持ち物と呼べるようなモノはここにはなかった。それは俺と母さん二人が食べて行くのでやっとの稼ぎしか得ることが出来ないというのもあるけれど、俺が単にモノに執着しない性格なこともある。

俺の名前は「綱吉」。
「日本」という国の高名な人の名が由来らしいけれど、かといって日本人らしく黒の髪や黒の眼をもっているわけじゃない。母さんがつけてくれた名前だから、俺も愛着をもっているだけだ。けれど、この変わった名前のことで近所の人に噂されるのが嫌だったから、短く取って「ツナ」という名前の方を使うようにしている。そんな俺をみて母さんはすこし寂しいような顔をしたけれど、それから少し微笑んで「ツッくん」と俺のことを呼んでいた。
俺には父親がいない。
物心ついたときから母さんと二人きりの家族だった。別に今この年になって父親を欲しいとは思わないけれど、小さい頃は頻繁に母さんに「おれの父さんはどこにいるの?」と無邪気に尋ねていたみたいだ。そのたびに母さんは何も言わず俺のことを抱きしめて、母さんの胸の温かさに俺が根負けして眠ってしまうまでずっと優しくして離そうとしなかった。だから、ちいさな俺も次第に父さんのことを聞くことは諦めていった。
母さんの体が悪くなったのは俺が10歳の時だった。
もとから体が丈夫なひとではなかったけれど、俺を養うためにそのころは特に無茶をしていたせいで冬の終わりに畳みかけるような疲れが体にのしかかってきて、母さんはとうとうベッドから起き上がれない体になってしまった。それからは家族と外の世界をつなぐ役割は俺が担うことになった。
その年に学校を辞めて、アパートから一番近くのマーケットでアルバイトをさせてもらうことになった。家とアルバイト先を往復するだけの日々が10年以上もつづいたけれど、全然つらく思うことはなかった。

母さんのことが好きだった。
母さんもきっと俺のことを大事に思ってくれていた。
それで充分だったから、他になにかを必要と感じることはなかった。

でも母さんはもう居ない。心臓も凍らしてしまうようなひどい冬が母さんをとってしまった。
母さんは今は取り壊されてしまった孤児院の育ちだったから、葬儀の参列者は俺と、俺をマーケットで働かせてくれたご夫妻だけだった。
教会を後にして、誰も「おかえり」と言ってくれない部屋のドアをあけて、母さんが作った刺繍の壁掛けを見ていると涙があふれてとまらなかった。
泣いて、何かを罵っていないとやっていられないほど毎日がとても苦しかった。眠れない日が続いた。母さん以外になにも望んでこなかった俺がどうしてこんな目に遭わなければいけないのか理解ができなかった。

このままじゃいけない、とようやくまともな思考を取り戻したときには二ヶ月が経っていた。



RRR…

母さんの身の回りの整理を終えて部屋を眺めていた時だった。聞き慣れない音にしばらく固まっていた俺はようやくそれが電話の音だったと気づいて慌てて受話器をとった。電話が鳴るなんてひさしぶりだ。

「──はい。もしもし、」
(──綱吉さんですか?)

電話の向こうは男性だった。マーケットでの日常会話が外の世界の全てという俺ですら聞いたことのある大学の教授をしている人らしい。はじめに「ヴェルデ」と名乗ったその人は静かだけれど、俺に口を挟ませない強い口調で今日の新聞の求人広告のある記事を読むようにすすめてきた。いきなりのことで驚く俺にもかまわずヴェルデさんの話は続く。

(あなたに私の研究の被験者をお願いしたいのです)

アパート代を賃上げされ世の中の物価も高騰している今、マーケットの稼ぎだけではこの先暮らしていく自信をもてなかった俺は求人広告欄を見るために久しぶりに新聞を買ったところだったので言われるまま急いで新聞をめくった。
そこには魅力的な文字が躍っていた。

====WANTED============

眠れない人はいませんか?
〜被験者募集〜
不眠症の方、週給900ドル。
パークシャー地方の古風で美しい屋敷にて実施
──心理学研究より

======================

「研究の被験者、900ドル…」
すごい値段だ。
寝泊まりする先で毎日簡単なテストに答えるだけなのに一週間でこの値段は破格で、俺は食い入るようにその広告を凝視した。マーケットで朝から晩まで働いてひと月に貰えるお金と同じ額が一週間研究の手伝いをするだけで支払われるのだ。

ヴェルデさんの話がひととおり済んで受話器を置いても俺はしばらくその広告を信じられない目で見つめていた。



          * * *



「久しぶりに帰ってきたばかりなのに、送ってもらっちゃってごめん」
「気にすんなコラ」
片手で車のハンドルを握りながら言葉を返してくる彼は「コロネロ」と言って、外の世界にほとんど知り合いの居ない俺にとってゆいいつ気兼ねなく話のできる人だ。歳はほとんど俺と変わらないのに同性の俺でさえ思わず見惚れてしまうくらいすごく男らしくて、格好いい友達だった。
けどコロネロの格好良さは見た目だけじゃない。
「それにオレはガキのとき世話になって大恩あるナナにお前のことを頼まれてんだ。放っておけるわけねぇだろ」
「うん…ありがとう」
コロネロと俺の母さんに血のつながりは無いけれど、俺に向ける同じくらいの大きな愛情を母さんはコロネロにも向けていた。コロネロに両親は居ない。それでも彼はつらい境遇を感じさせないくらい強(したた)かに一人で生きていた。
ひとつ年上にあたるコロネロのことを俺は子どもの頃よく兄ちゃんと言って慕っていたことを覚えている。母さんが仕事でなかなか帰ってこられないときコロネロはよくアパートに来て、部屋のすみでグズっていた俺の遊び相手になってくれた。
クリスマスの時にコロネロと俺とでベッドに飛びこんで母さんを挟むかたちで身を寄せ合いながら母さんとっておきのお伽話に耳を傾けた思い出は、十年以上経った今でも俺の記憶のなかで輝いている。

仕事の事情でこの土地を去っていたコロネロに再び会う機会に恵まれたのは二年前だ。
風の噂で彼は軍に所属する特殊部隊の教官になったと聞いていた。
あまりに俺と掛け離れていた生業に、たちまちコロネロを遠くに感じた。
けれどコロネロはコロネロだった。
規律を重んじる世界にずっと身を置いていたはずなのに俺と母さんに対しても数年前とまったく変わらない態度でいてくれたコロネロに「ツナ、元気にしてたかコラ」と声をかけられると俺はたちまち胸が熱くなってその場で彼の胸に抱きついた。


「…ナナが亡くなってすぐに駆けつけられなくて悪かった」
「…ううん。コロネロも母さんにすぐ会えなくて辛かったじゃないか。だから…俺の方こそごめん。」
ハンドルに片手をかけてフロントガラスの向こうをずっと見つめながらも痛々しく顔をしかめているコロネロに返事をかえす。
「ツナがオレに詫びる理由なんかひとつもねぇぞコラ。同じ場所にひと月も留まってなかったオレにナナのことで連絡を寄越してくれたのはツナだ。そのこと今でも──感謝してる」
「コロネロ…」
忙しい身のコロネロが母さんのお墓に花をそえることができたのはつい一昨日のことだ。雨の日だった。くぐもって暗い空の下で冷たい墓石に刻まれた母さんの名前に指さきで触れて、それを確かめるようになぞっていた時もコロネロは泣かなかった。でも、その強い背中を見て俺はまるで目の前に表せないコロネロの悲哀をまるきりもらってしまったみたいに泣いてしまった。
コロネロに肩を支えられながら墓地を出て、アパートに戻り、二人で夜が明けるまで話をした。
半年前に退役して今は雇われたときだけ軍に従事している生活を送っていることを知った。
どんどん自分のやりたいことを叶えて、高みにあがっていくコロネロを前にもまして誇らしく思った。
かわって俺の話になったけれど、俺なんかがコロネロの豊富な話題に張り合えるはずもない。
頭をなやませているとふと新聞が目に止まり、不思議な電話とその新聞広告の話がうかんだ。
「せっかく誘ってもらったから参加してみようと思って」、と思いきって切り出せばコロネロがその研究が実施される屋敷まで車で送ることを買ってでてくれたのだ。



          * * *



「──ツナ、あれか?」
「………あ、…うん。多分…そうだと思う」
ヴェルデさんから事前に送られてきた地図を見ながら俺はしどろもどろに返事をした。
「でかい家だなコラ」
「…………う、うん」
小高い丘を越えて目の前一杯に広がった景色をコロネロは「家」とひとくくりにするけれど、これだけ大きな建物はもう「屋敷」とか「館」のレベルだと俺は思った。
子どもの時に通っていた学校なんて目じゃない。こんなに大きな建物は見たことがなかった。
俺の驚きをよそにコロネロは幾重にも植物のツタをからませている門の前に車を停車させると、黒光りする鉄柵を掴んでかるく揺すった。
「鎖と錠がかかってるぜコラ。不眠症の実験にしちゃ厳重すぎやしねぇか?」
地図を見て場所に間違いがないことに弱ってしまって返答に困っていると目つきの鋭い初老の男性が門の向こうからぬっ、と現れた。
「…厳重すぎるくらいが安心できるのさ。俺にとっても、町の人間にとってもな」
「アンタは?」
音もなく姿をみせたその人に竦み上がった俺と相反してコロネロは驚いた様子もない。
「この屋敷のご主人だった方に代々ここの管理を任されている者だ。あんた達は誰だね」
「ここで不眠症の人間をあつめて泊まりがけの研究をするんだろ?それに参加する人間だ」
「……内容までは知らんが話は聞いている。入れ」
扉を幾重にもまたいでいた鎖がジャラジャラとかん高い音を立てて外される。
「ああ。──ツナ、車に戻れ」
降りかけていた俺を声で車へ押し戻すとコロネロはつづいて運転席のドアを閉めてアクセルを踏んだ。