外は雨が降っていた。
タンタンと小刻みに雨粒が叩いては小さな支流をつくって窓からすべりおちていく。そこを何と気なしに眺めていてもやっぱり眠気がやってくる気配は無さそうだった。今日は昨日ほど怖いという気持ちはなかったけれど、かといって不安が拭えたという訳でもなかったのでパニックになるよりは、とベッドからすべり降りると明かりを持って早めにとなりの扉をノックした。
「…どうした?」
昼間のズボンを穿き込んだまま、上着を脱いでタンクトップ一枚の軽装になっていたコロネロは俺へ問い質す。普段通りの顔だけどその声はすごくやさしく俺を気遣ってくれる声色だったので俺は涙が出そうになった。自分の不甲斐なさにうつむきながら言うだけ言ってみた。
「…コロネロ…あのさ……使ってるベッド…せまい?」
「?……お前の使ってる方よりは小さいぜコラ」
「う…うん…。そうなんだけど…」
子どもの時みたいに一緒に寝られたら安心してよく眠れるだろうかと思ったけどはたして今の歳で言っていいものか、それにどうやって言えばいいのか分からずにしどろもどろな返事をかえしているとコロネロがずばりと言い当てた。
「オレと寝たいのか?」
「……うん。」
「………………。」
「……………やっぱり、ダメ?」
やっぱり呆れているのか無言で固まってしまったコロネロの反応を見て、俺は聞いたことを後悔した。
「いや……昔お前の家で三人寝たときみたいに寝るってことだろコラ」
「う、うん」
「………そうか。──ああ、そのくらい構わないぜコラ」
「ほんとう…?ありがとう!」
一旦戻って枕を持参してくると彼は扉を大きく開いて招き入れてくれた。ベッドの右側に陣取るとコロネロが左から入ってくる。俺が嬉しさからダイブしても軋む音すらしなかったベッドなのに体格のいいコロネロが全身を凭れたとたんギシリと撓んだので小さいときは同じ物を食べて過ごしていたはずなのにまざまざと違いを見せつけられてすごく情けない気分になった。
「コロネロって普段どうやって体鍛えてるの?いいなあ…俺もこんな風になってみたいな…」
コロネロの胸筋を羨望の眼差しで見つめながら肩、腕、腹、と上半身の目についたところを手当たり次第無遠慮にぺたぺた触る。
「…お前はそのままのほうがいいと思うけどなコラ」
「え?なんで?」
「……いや、なんでもねぇ。だが鍛えるにしても俺と同じやり方したらケガするのは目に見えてるぜコラ」
「そんなに激しいの?」
「ああ、まあな。」
「そうなんだ……」
俺は参考にしようとつづいて尋ねた。
「コロネロのって…痛いの?」
「………痛くはねぇと思うが…………おいツナ、妙な話になってきてないかコラ」
「そうかな?…でも俺、コロネロと一緒になれるんならちょっとくらい辛くても平気だよ。痛くても我慢できるよ!」
「──早く寝ろ。」
勢いついた俺がアピールすればするほどコロネロはなぜかそっぽを向いて、早々と横になってしまった。俺のチャレンジをコロネロなら応援してくれると思っていたのに肩すかしをくったので口先を少し尖らせる。
反応を返してくれないので一方的に彼の金髪を眺めているとひとつ思い出したことがあった。いい機会だと思った俺は自分の部屋に戻ってクローゼットから上着をとってくる。
「どうしたコラ」
ベッドの上で上体を起こして腕組みしているコロネロへ上着ポケットから取りだしたものを差し出した。
「コロネロはやっぱり俺の中で一番大事だよ。だから…これ、あげるね。」
訝しみながら俺の顔を眺めていた少し眠たそうなコロネロの顔が俺の手のひらにあるものを見たとたん激変する。口を真一文字に引き結んだまま目を見開いて、あまつさえ後ろに倒れかかった。
「わっ!どうしたのコロネロ!?」
何に衝撃を受けたのか全然分からない俺は慌てて彼の肩を掴んだ。けれどそれ以上の力でコロネロは俺の両肩を掴んでひと言ひと言怖いくらいに区切りながら問い質してきたのでびっくりした。
「……お前。こいつ…どうした?」
「へ?…え??」
要領を得ないと思ったのか首をふってコロネロは質問を変えた。
「これが何か知ってるのか?」
「う、うん。お守りでしょ?大事な人と二人きりになれた時にあげるものだって聞いたから…」
「誰に聞いた」
「ビアンキさん」
名を聞くなり全身から気の力が抜けたように肩を落としたコロネロは片手で両目を覆いながら瞑目する。地の底から絞りだしたような深い溜息まじりにビアンキさんの名前を復唱したかと思えばいきなりそのお守りを握りつぶして盛大に舌打ちしたので俺はとんでもなく悪いことをしたんじゃないかと考えが及ばないなりにも反射的に謝った。けどそれだけじゃコロネロの気持ちは収まらなかったみたいで俺は頭をはたかれた。
「いたっ!痛いよコロネロ!」
「──ツナもツナだぜコラ。あの女がどう言ったかは知らねえが他人の言葉そのまま鵜呑みにして要りもしねぇモンをホイホイ貰ってくるんじゃねえ」
「う…うん…ごめん」
「ったく…」
せっかく貰ったそれを俺にことわりもなくクズ入れに捨てるとやっと怒りが収まった様なので、俺は疑問に思っていたことをおそるおそるコロネロに聞いた。
「あの……あのさ…それ、結局何に使うものなの?」
「………お前はまだ知らなくていい」
「え、でも…俺がまた同じ間違いしちゃうよ?そうなったらまたコロネロにも迷惑かけちゃうし…」
未練がましくチラチラと屑入れを見遣る俺にむけてコロネロはすぐさま断言した。
「アレは貰うな。誰にもやるな。…それで解決する」
それ以上まぜっかえすとコロネロの機嫌が今にもまして急激に悪くなりそうだったので逆らわないことを示すために急いで首を縦に振った。
…でもやっぱり明日、ビアンキさんに使い道だけは聞こうと思う。
* * *
「コロネロ…まだ起きてる?」
「……眠れないのか?」
「…うん。雨…止まないね。」
「ああ。そうだな」
取り留めもないひとことひとことにも返事をかえしてくれるその優しさが嬉しくて俺は昔を思いだした。
母さんが生きていて、寝る支度を調えているあいだ俺とコロネロはよくベッドの上でじゃれあっていた。その頃からコロネロは腕っぷしが強くてレスリングでも腕相撲でも何をやっても俺は負けどおしだったけれど、悔しい思いはあってもどうしてかコロネロに負けるのはきらいじゃなかった。
あの頃はそれが不思議でならなかったけれど、きっと勝ち負けなんか気にならないくらい、一緒に居られるだけで満足していたんだと今ならあっさり答えが出せる。本当に俺はコロネロのことが好きなんだと思う。
寝返りを打って、コロネロの背中を眺めた。
俺とは比べものにならないくらいの格好いい背中が呼吸に合わせて微動する。
(コロネロ…)
違う。──唐突にそう思った。
コロネロは俺の知らない世界をいくつも一人で渡り歩いてきて、自分の力で生きてきた。だから休んでいる今この時でさえこんなに逞しい背中を保てるんだ。
彼のこの背中を頼りにして、心の支えにして大変な場面を切り抜けられた人はきっと俺だけじゃなかったはずだ。それに比べて俺は…何を持っているだろう?
ほんのごくわずかな世界しか知らない俺。
広い世界へ出て何でも知っているコロネロ。
でも…でも、育った場所は一緒だった──なのに。この違いは何なのだろう?
母さんが居たから?…違う。母さんが居てくれなかったら俺はもっとダメになっていた。それにコロネロのご両親は…いないんだ。なのに…なのに……
(ずるい…)
“──俺の自慢の兄さんみたいなコロネロ”
そう思った時から俺はいつからか競争するのをやめてしまった。
そのかわり一緒に成長できると思っていた。でもそれは俺の一方的な幻想だった。
同じ速度で大人になれると思っていたのに、気がついたときにはもう遅くて、手を伸ばすことすら出来ずあっという間に置いていかれた。
でも憎めない…コロネロは俺の自慢の人になってしまったから。
(何でこんなに遠いの…コロネロ…)
今になって…いや、だからこそようやく俺はコロネロとの距離がはっきり見えたのかも知れない。そして──俺は今どうしたって彼のこの背中に縋(すが)ることしか出来ないんだ。
「ツナ?」
いきなり後ろから抱きつかれたコロネロが驚いて咎めてくるけど、それを無視して俺は彼の背中へ顔をすり寄せながら尋ねた。
「コロネロ……俺、君が羨ましい。どうしたら君みたいになれるの?」
「………」
「俺には何もなくなった。…なのにコロネロみたいになれる自信なんかこれっぽっちもないよ……ねぇ、なんで…そんなに君は強いの?」
「ツナ…」
「もう一度教えてよ。知りたいんだ、君の事。」
コロネロは体勢を変えて俺の方へ寝返りをうつ。闇の中でもかがやくように存在感を増している虹彩の青が揺らぎもせず俺を見つめてきた。
「お前、誤解してるぞ。オレはこれまでお前を頼って生きてきたんだぜコラ」
「え…」
コロネロはつづける。
「お前はそうは思わないかもしれない、だがオレにとっての生きる意味はツナなんだぜコラ」
「どういう…こと…?」
言わんとしていることが本当に理解できなくて、俺は頭の中がからっぽになってしまったみたいにコロネロの顔をまじまじと見る。何でもひとりでこなせる強いコロネロが俺なんかを頼りにして生きていたなんて到底有り得ない話だった。
だけど彼はますます言葉に力を入れて俺の不安を払拭しようとしてきた。
「ツナと一緒に生きていきたいからオレは強くなりたいと思った。それを腹に決めてナナの所を飛び出したんだ。オレにはそれしかできなかった」
「………そんな…だって…コロネロは…」
「嘘じゃない。オレは最大限のオレに出来ることしかやってこなかった。それしか見ていなかった。だから強くなれた。ツナ、お前が居たからだ」
「………」
それから少し声色を落として、言い聞かせるような優しい含みを持ってコロネロは切り出した。
「ツナ、これからお前が生きていくなかでツナにしかやれないことがきっとある」
「俺にしか…出来ないこと?」
「ああ。オレには出来ない、お前にしかやれないことだぜコラ。それをお前が見つけるまでの間でいい、オレはお前の支えになりたい。お前に力がないならオレがお前の力になる」
「っ…!」
「それがオレの本当にやりたかった事だ──これは答えにならないか?」
(…ああ、どうして──)
どうして君は俺の前でそんなことが言えてしまうんだろう?
(コロネロ、コロネロ、コロネロ!!)
想うあまり彼の頭を掻き抱くようにしがみついた。そうしながら、結局俺は自分のことが可愛くて、これっぽちも犠牲になんて出来ないんだということを否応にも思い知らされた。だから現にコロネロに寄り掛かることしかできないでいる。
それが歯がゆくて堪らなかった。
「っ俺…自分じゃ何も出来ない……でも……でもコロネロに一緒に居てほしい。汚い奴でごめん…俺いくじなしだから…やっぱり一人じゃ怖いんだ…。……君が言うその時まででいいから…傍にいて………お願い、…コロネロ…」
「──わかった。お前が望むまで一緒に居るぞコラ」
すごくわがままな事を言っている自覚はあるのに彼の優しさに途方もなく惹きつけられてしまえば声のふるえを止める事なんて出来なかった。力強い彼の両腕を前に迷惑をかけたくないからと我慢するのはもう限界で、嗚咽を聞いてより一層つよく抱きしめてくれるコロネロの体が途方もなく温かくて、彼の肩口に顔を押しつけながら俺は涙が涸れるまで泣きつづけた。
* * *
館のなかでもひときわ大きな肖像画の前にそれは居た。
背の高い男だった。
全ての明かりが消され全ての帳が降ろされたエントランスホールの中央で何かをしているわけでもなくただ佇んでいるだけだというのに、大階段の四隅に据え置かれた厳つい銅像でさえ男の持つ異質にくらべれば赤子の玩具のように思えた。
踊り場から二階へつづく西通路の方をみやると男はおもむろに帽子を脱ぐ。
その目を見た者をたちまち凍らせるような、人らしい熱を微塵も感じさせない冴え冴えとした双眸が隠されもせず露わになっていくさまは見事だった。
美男だが、まるで精巧すぎる人形が取り返しのつかない大きな過ちによって偶然命を吹きこまれてしまったような底寒い微笑をうかべていた。
その場にながく留まれば留まるほど男はより力を増してまわりの色は闇に落ちるのだと信じさせる、この世のものとは思えない圧倒的な存在感をまとわせている。
常人の耳には捉えることのできないような鋭い高音とうなるような低音が室ぜんたいから一度だけ、陽炎が立ちのぼるように韻と響く。
(────…)
声ならぬ声。
男は嬉しそうに顔をほころばせた。だがそれは人の悲嘆や不幸に惜しみない愛情を注ぎ育て、心から慈しむような歪んだ輝きに満ちていた。
雨が上がりようやく差し込んだ月明かりでさえ男の頭上にあるステンドグラスを満足に照らすことは許されずふたたび雲間の中に取りこまれる。
どこから紛れ込んだのか男のまわりには黒揚羽が一匹だけゆらゆらと舞っていた。
それを気にする様子もない男は西へ続く階段を上り、蝶は付き従うようにあとを追った。
そうして二つの異質が長い廊下の先にある暗闇に姿を眩ませてしまうと、まるで全てが夢の中の出来事だったかのように館はふたたび眠りについた。