朝食をひとりで摂って、外に出て気分転換をする気にもなれなかった俺は長い間使われていない大ぶりな暖炉のそばのソファに座りながらノルマのテキストを開いた。百ページほどもある博士のテストは俺にも出来る簡単な計算式や、迷路、抽象的な図形を見せられてこれが何に見えるかを書くというものだったので学力が無いに等しい俺にも優しいモノだった。
「不思議…これが博士の役に立つのかな…」
一ページ一ページ真剣に取り組んでいるつもりだけど、その内容がまるで簡単なので面食らってしまう。テストというからには難しいものだと身構えていたのに今挑戦しているコレはまるで気晴らしにやるようなクイズ集に思える。
半ばほど終えたところでひと息ついて天井を仰いだ。高い天井には綺麗な空と天使の絵がいっぱいに描かれている。ここに滞在する一週間程度なら眺めていて見飽きることは無いだろうなと思えるほど何かのストーリー仕立てらしく事細かな天井画はみごとだった。
しばらくぼーっと上に気を取られていると、食堂の方へつづく扉がカチャリと閉まる音で我に返った。
「…コロネロ?」
様子を見に来たのかな、それにしてはひと言も声を掛けないなんて、と不思議に思う。
すると今度は俺のすぐそばにある暖炉で鎖と鎖がこすれ合うような金属音が響いたのでギョッとして振り返った。
「…風…かな。」
暖炉は立ったままの俺が五人は楽に入れそうなほど幅も高さもあるもので、昨日初めて見たとき俺はこれが暖炉だとは気がつかなかった。火を使わない時は鉄の鎖で作られたカーテンで覆いをしてあるので左右に除(よ)けてみないことには暖炉にどれほどの奥行きがあるのかは分からない。
煙を逃がすための煙突から風が入ってきたんだと自分に言い聞かせてみるけど真昼でも奥のよく見えない薄暗い暖炉のなかは気味が悪かった。
思わず昨夜のことを思い出してしまう。
「…別の部屋に行こう」
暖炉の方を窺いながらソファに置いたテキストに手を伸ばす。
「わあっ!!」
鎖のカーテンの端から端にサッと黒い人影が横切ったのをまともに見てしまってびっくりして飛び退いた。
遂に姿を見てしまった。しかも今度は数歩の距離でこちらの様子を見張られている…!
俺はたまらず食堂の方へ駆けだした。
* * *
「この中にいるのかコラ?」
「う、うん…!扉見張ってたけど何も出てこなかったからきっとまだ居ると思う…」
「それって昨日の夜ツナの部屋の扉を開けたっていうアレのこと?」
「…同じかどうかはわからないけど…でも暖炉の中に何か居るのは確かだよ!」
「そうか…見てみようぜ」
コロネロが灰掻きの鉄杖を使って鎖のカーテンを両脇に除ける。身構えていたよりずっと甲高い音が鳴り響くそれに思わず後ずさりしてしまったのをビアンキさんに見とがめられて、自分の気弱さがますますいやになった。
結構大きな人影だったのにコロネロは暖炉の中に入り丹念に調べ始めたので俺は恐怖とは別の不安に襲われる。また見間違いにされてしまうのだろうかという不安だ。
そしてその不安は的中した。
詳しく調べているコロネロもさいごにぐるりと一巡すると暖炉の中から戻ってくるなり首をふった。
「何も無いぜ、ツナ」
「本当に見たの?」
「………うん」
二人の目をまともに見ることができなくなって、思わず下を向く。
「居なかったけど…でも……本当なんだ…本当に見たんだ!」
「──ツナ、昨日は少しでも眠れたのか?」
「うん。少しだけ…眠った」
「………本当に?」
刺すように真剣に見てくる二人の視線に反発して、俺は叫ぶ。
「二人とも俺を疑っているの!?」
「違う、ただ…」
「じゃあどうして俺をそんな目でみるの!?俺はおかしいんじゃない…!!」
嘘つき。
嘘つき、と言外に言われているようで辛くて、落ち着く余裕なんてなかった。
この場を一刻も早く忘れたかった。
「…っ!?ツナ!」
* * *
「待てツナ!」
コロネロの静止の声を振り切るようにエントランスホール目がけて駆けだしたツナは追いかけてくる二人の声につかまりたくない、その一心で深紅の階段を駆け上がる。
だが正面の大きな肖像画を振り仰いだ途端、暗く真っ赤で巨大なものに全身を呑みこまれてしまったような理解できない恐怖に打ちのめされた。
「…ッ!わあああぁ!!」
「──ッ!!」
「ツナどうしたの!?……っ!」
踊り場で目を見開いたまま立ち尽くしているツナの視線の先を見てコロネロとビアンキは絶句した。
《 お帰り。ツナ 》
ねっとりとしたペンキの赤が肖像画の上と壁いっぱいに縦横無尽に走っていた。
走り書いて間もないらしく血のような赤が肖像画の額をつたって絨毯にインク溜まりをつくりポタポタと跳ねているそれは、まるで館全体が自らをしてツナの名を呼んでいるような光景だった。
「……ひどい…」
ビアンキの声にツナは食いかかるように叫んだ。
「ひどいのはどっちだよ!誰!誰がやったの!?」
「っ!私じゃないわ…!」
「どうしてこんなことするんだよ!俺の何がいけないの!?」
弁明に留めてもまるで犯人扱いのツナの言い様にビアンキが堪らず反論した。
「ならはっきり言うけれど、ツナ、あなたじゃないの?」
「俺!?どうして俺が自分でこんなことしなきゃならないんだよ!」
「博士が言ってたみたいにあなた自分がコロネロに心配されたいからってこういうことしているんじゃないの?自分で自分のしていることに気がつかないだけなんでしょう!?」
耳を手で塞ぎながらツナは座り込み、首を横に振って一層声を強く張りあげた。
「違う…違う!絶対に俺じゃない!!」
「……おい、もう止そうぜコラ」
「コロネロ、あなただって本当はツナが怪しいって思ってるんでしょう?ここへ私たちを誘導したのもこれを最初に見つけたのもツナじゃない!そのことをこの子にはっきり言ったらどうなの!?」
「──ツナはこんなことをする奴じゃない」
「じゃあ私だっていうの!?何のために!」
異常な事態が場の空気を汚染し、抑えられないはげしい焦燥がぶつかりあう。より一層不安が増幅し、恐怖も勢いを増した。
危うい均衡を沈黙が保つ。
首をふって緊張を解いたのはコロネロだった。
「もう忘れよう、こんなこといつまで続けてもキリがねぇぜコラ。俺は博士を呼んでくる。…この落書きをどうにかしねえとな」
「……そうね。」
我に返ったようにハッとしたビアンキが額をおさえながら目をつむってこたえた。
「ツナも、このことは忘れるんだ。いいな?ツナ?」
「…いやだ…………こんなの…誰だったとしても酷すぎるよ…」
どうにもならない悔しさを唇で噛みつぶしながらツナはゆっくり踊り場から離れる。コロネロは掛ける言葉を咄嗟にみつけることができず、無言で後ろ姿を見送った。
* * *
「ここは…?」
「温室の中に作られた植物園だよ。リボーン氏は造園にも興味をもっていたようだ」
陽が西にかたむきはじめていた頃、ふさいでいた俺を部屋から連れ出した博士は気分転換にとこの館の温室へ誘ってくれた。
薄着一枚でちょうどいい温度に保たれた室内はひっそりと静まっていたけれど、植物が水気を浴びてキラキラと輝くので不安を覚えるような厭な寂しさを感じることはなかった。
「きれい…ですね」
ここでリボーン氏の奥さんが亡くなったのは聞いたけれど、今はとなりに博士が居るからだろうか。なぜか怖いと思えなかった。
ただでさえ広い温室を更に広く見せるように植樹された木々は遠くになるほど背が高く、園の真ん中に泳げそうなほど広い噴水つきの池があった。その中には水草を選りわけるようにすらりとした魚が泳いでいて、たまに水面へ跳ねる光の雫がきれいだった。
「少しは気晴らしになったかな?」
「はい!ありがとうございます。こんなに綺麗なところがあるなんて夢みたいだ」
いい香りに誘われて目をせわしなく漂わせながら俺は答えた。小道の両脇で咲いている花の名前も分からなかったけれど、すごく心が落ちついた。
「不思議…何でだろう。すごく気持ちが落ちつきますね」
「植物にはそういう力があるからね。ここに居たいなら鍵はずっと開けてもらっておくから、君の来たいときに来るといい」
「はい。…ここは母さんの話にもコロネロの話にもなかった場所だけど、すごく好きです」
「君は長い間を限られた地域で過ごしてきたようだから、そう思うんだろうね」
「でも母さんと…特にコロネロの話は楽しいんです。帰ってきてたときに話を聞くんですけど、怖いなと思うときもあるけどでも、知らない世界はやっぱり素敵で…俺、冒険に憧れていました」
「コロネロ君は面白い経歴を持っているようだから話に不自由はしないだろう」
「ええ。だから俺なんかがコロネロみたいに魅力的な場所に行けるなんてこと、絶対無理だと思っていた。──でも、博士。あなたがここへ俺を連れてきてくれたから俺はこんな素敵なところでわくわくしているんです。…本当にありがとうございます」
「……私は自分の研究をしに君たちを連れてきただけだがね」
「それでも…です。それでも、俺には嬉しいんですよ。博士」
博士の硬い表情を見ながらお礼を言うとツと鼻先を綺麗な蝶がよぎり、瞬く間にきれいな紋様に視線をうばわれた。
同じ種類の蝶がからまりあってふわりと頭上に舞い、太陽の光の影になる。
俺は噴水の水音を聞きながらまぶしいのも忘れてその光景のとりこになった。
* * *
夜になり、キッチンを通りかかったところで中から語気の高ぶった声を聞いた。
頭だけ出して様子を覗うとコロネロとビアンキさんが博士のことを責めていたので俺は慌てて止めにはいる。
「どうしたのビアンキさん、コロネロも…」
コロネロは隠そうとしなかった。
「ツナ、お前のことをナナから言われているんだ。これ以上ここに居させるわけにはいかない」
驚いた俺はビアンキさんへ振り返った。
「私もそのほうがいいと思うの。ツナ」
「ビアンキさんも…」
「………綱吉君。君自身はどうなのかな」
「俺…自身?」
「そうだ。君が本心からこれ以上研究に関わりたくないと思っているなら私も中止を検討せねばならなくなる。…迷惑な話だがね」
「………。」
思い思いの厳しい顔をしながら皆が俺を見る。俺は昨日始まったばかりのこの研究をふりかえって、少し考えて、誰の意志に強制されたわけではない思ったそのままを口にした。
「俺…は、……ここで最後までやりたい。折角博士が誘ってくれたんだもの。…役に立ってからここを出たいよ。ねえコロネロ、俺もコロネロみたいに何かをやりとげてみたいんだ。帰って、心の中で自信になるものが欲しいんだ。だから…お願い。ここで最後までやらせて」
「ツナ…」
「ビアンキさんごめんね。俺、階段のところでパニックになっちゃって言ってることを自分でも止められなくて…本当にごめんなさい」
「……いいえ、私も言いすぎたわ。ごめんなさいねツナ」
ビアンキさんが僅かにかがんで俺を抱きしめる。俺の肩口にすごくいい香りのするさらさらした長い髪がかかってきたので思わずドキドキしてしまった。ビアンキさんの背中の向こうから博士が俺へ確認をとる。
「──研究続行、ということで大丈夫かな?」
「はい、よろしくお願いします」
「宜しい。…エントランスホールの落書きについては私が弁済しておくから君が気にすることはない。今日は皆もう部屋に戻って休みなさい」
博士のいたわりの言葉に後押しされるかたちで俺たちはキッチンを後にした。