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「何かあったら呼べよコラ」
「うん。ありがとうコロネロ」
夜も更けて談話室を離れた俺とコロネロは割り当てられた西側の個室へ向かった。俺とコロネロの部屋は隣り合っていて、仕切りのぶ厚い壁には部屋間を行き来するための扉がついていた。
この仕切扉に鍵がかからないこともあってビアンキさんは東側にある一人専用の寝室を使っている。ビアンキさんが談話室から出るときに「ツナなら私は一緒の部屋でも構わなかったけれど、ね」とからかってきたので俺は赤面しながらどもってしまった。ビアンキさんのからかい癖は俺のノミの心臓に悪すぎる。
「今日は眠れるといいな」
「うん、コロネロも…いい夢を」
分かれて部屋にひとりきりになるとあらためてこの寝室の広さに圧倒される。こんなに広いのだからもう一人居たって俺は気がつかないだろう。
「…うう…ヤなこと考えちゃった…」
何度も背後を振り返って誰も居ないことを確かめてから俺は手早く寝間着に着替えてベッドにはいる。
仰向けになってみるとベッドの脚に沿うように長く先の細い柱が四隅にあるのが目についた。このクイーンサイズのベッドはもとは天蓋付きだったらしい。
「………」
ふかふかのベッドと羽根枕の力をもってしても俺の頭は眠る兆しさえなく、二度三度寝返りをうってみても効果はなかった。
「………やっぱりダメだ…寝れないや」
溜息をつくと、部屋に入る前に持ち込んでいた水差しにそろりと手を伸ばす。
「わっ…!」
ギョッとして手を止めた。水差しとコップがある方向の壁の暗がりからぼんやり一対の目が俺のことをジィと見ているのが見えたのだ。
すぐさまコロネロが居る部屋の方の扉を見て助けを呼ぶ声を出しかけて、すんでのところで思いとどまった。
「………落ち着け落ち着け。こんなんじゃコロネロにだって呆れられちゃうよ…俺は一人だって大丈夫なんだ…だから大丈夫…」
はじめにあれだけ部屋の中を確認して誰も居ないことを確かめたのだから百パーセント何かの見間違いであることは分かっているんだ。と言い聞かせて俺は決心すると水差しの方の壁をもう一度振り返った。
「っは…なんだ、絵か。よかった…」
そこに掛けられていたのは女の人の肖像画だった。眠るために照明をほとんど落としてしまった部屋では暗がりになってよく見えないけれど、着ている服とか髪飾りがとても綺麗なものだったのできっと昼間に見たらすごく華やかに見える絵画だったろうなと俺は思った。
興味がわいて絵のそばへ寄ってみると額の下に添えられたタイトルのような札が見えた。

《 最愛の人 》

「最愛の人?──あっ…」
そこまで考えて俺はこの絵を見たことを激しく後悔した。ここの館の主人が『最愛の人』というタイトルの絵を壁に掛けたならその絵は奥さんしかいないはずだ。そして博士のさっきの話が本当ならこの館の主リボーン氏の奥さんは……
「──ッ!!」
即座に踵を返して俺はベッドに駆け戻る。頭からシーツをかぶるなり音を立てるのも恐ろしくなってしまって息を殺しながら俺は早く眠りがやってきてくれるのを切実に願った。



          * * *



「ん…うん…、…っ寒い……」
いつの間にか眠れていたみたいだったのに、俺は凍りつくような室温のせいでまた目を覚ますことになった。シーツを払いのけて上体を起こす。うすいカーテン越しに見えた窓の外はまだ真っ暗で、願ったよりも時間は経っていないようだった。
溜息をつくと吐いた息が白くなって俺の目の前を一瞬漂い消えていく。
「さっきはこんなに寒くなかったはずなのに…」
絵の怖さよりも少しだけ寒さの方が勝っていて、俺は荷物の中からあたたかい上着を取るためにベッドからそろりと足を降ろした。

──トン、トン、トン、

廊下繋ぎの扉をノックする控えめな音が聞こえた。
博士かな、と思って俺は何の躊躇いもなく扉に向かった。寝ぼけまなこでまだぼうっとしていたからそんなことが出来たのかもしれない。
「何のご用ですか博士?……あれ?」
重い扉を頭一つ分だけ開けると俺は廊下を覗いた。けれどそこには誰も居らず、あるのは赤い絨毯の敷かれた長い廊下とその両端に留まる真っ暗の闇だけだった。
「…気のせい…かな」
薄ら寒さを感じたので音を立てないように扉を閉めて、それでも不安を感じたので内から鍵をかけた。気を取り直して上着を取ろうとクローゼットに向かう。すると俺の背後でまた音がした。

──カチャ、カチャ、カチャ、

「──っあ…」
この扉は水平のハンドルを下向きにひねってから引いて開けるようになってるのだけど、今俺の目の前でそのハンドルがゆっくり上下に動いていた。
廊下を確かめた時に人が居ないことは分かっていたし、万一廊下の暗がりに隠れていた人があったとしても俺が扉を閉めてから走りでもしないかぎり即座にこのドアノブに触れることは不可能なはずだ。
そして俺は誰かが廊下を走ってくる気配もその足音だって聞いた覚えなんかなかった。
「……っ、あっ…ああ…」
人じゃない。
きっとこの扉の向こうにいるのは人じゃないんだ──。
俺は恐怖でまともな声が出なかった。けれど扉のノブはカチャカチャと鳴り続けて俺の目を釘付けにして離してくれない。
次第に扉を開けようとするその力は乱暴なものになった。

──ガチャッ、ガチャガチャガチャガチャガチャッ…

力まかせに、けれど速い速度でハンドルが上下する。
その音を聞くのも我慢できなくなって俺はその場で耳を塞いで恐怖のあまり離せなくなった目はドアノブを見続けたまま硬直した。

──ガチャ、ガチャ、ガチャッ…──

ひときわ大きな反動を残してハンドルが元の位置に戻ると急にそれきりになり音もやんだ。
「…………いなくなった…のかな…」
まだ体の緊張をほどくことができない俺はしばらくノブを見つめつづける。その時だ。

──キィ、キィィ…

「ヒッ…!」
わずかな音の先に目を向けると俺の心臓は凍りついた。
ドアノブのやや上にある、閉めたはずの内鍵が弧を描くようにゆっくりゆっくり回っていた。

(入ってくる!!)

もう意地なんて張っていられなかった。
限界だった。
なけなしの力をふりしぼって転がるようにその場から飛び退くと俺は一目散にコロネロが居る部屋の方へ駆けだした。
二つの部屋を隔てている壁に体当たりするように身を寄せてドアノブを握りしめるとめいいっぱい力を入れて扉を開けようとした。
けれど夕方確かめたときはたしか簡単に開いたはずのその扉は今俺の全力をこめてもびくともせず、まるで壁に塗り込められたみたいに全然動く気配がなかった。

──ギィィィイ…

背後の扉が開く音がした。廊下続きのあの扉が──!
廊下から這入ってきた空気が一層凍えるような鋭さをまして俺の足首を撫でさする。
何があっても絶対に振り返るまいと俺は扉を叩きながら兄代わりでもある親友の名をありったけ叫んだ。
「ッ!!コロネローッ!!」
途端、がっ、と異様な音がして勢いよく開いたので俺は前のめりにつんのめった。扉に全体重をかけていたので完全にバランスを失って床へ倒れ込もうとしたところをコロネロの腕にがっしり支えられた。
「コロネロ……っ」
見たこともないくらい厳しい顔をしたコロネロから睨みつけるように凝視されたので俺はびくりと肩を震わせた。その拍子に安堵から出た涙がひとすじ頬を伝って流れてしまった。その俺の様子を見てコロネロは一層眉根を寄せる。
「後ろにいろ」
有無を言わせない痛いくらいの凄い力で引っぱられて俺は気づけばコロネロの背中に庇われていた。
「──…俺の部屋の方の廊下に誰か居るんだ…誰かが……中の鍵締めたけど…ソレも開けてきて……俺…怖くて……我慢できなくて…っ。」
俺は情けないことにコロネロの背にすがりながらやっと立っていられる状態で、コロネロは俺の部屋を凝視しながら中の様子を探っているみたいだった。
「おいツナ、そいつの顔は見たか」
コロネロの背中に顔を押しつけながら首をふって答える。
「お前はここにいるんだ。すぐに戻る」
言うなり彼は俺を置いて俺が居た場所を調べに部屋へ入るとふたつの部屋を隔てる扉を後ろ手に閉めた。また一人になった俺は声を出すのも怖くて絨毯の上に座り込んだままコロネロの帰りをじっと待った。
ほどなくして彼が戻ってきた。
扉を閉めて緊張をほどくようにひと息ついた拍子に目が合うとコロネロは片手を差し出して下で何か飲もうと俺を誘う。寝室から一刻も早く離れたかったので俺はすぐさま肯いた。



          * * *



キッチンの部屋の真ん中にある給仕人の食事用に使われていたテーブルにはコーヒーマグを片手にぶ厚い書類を読んでいる博士と、眠れないから飲み物を取りに来たというビアンキさんが居た。
「ツナ、あなたどうしたの!?」
憔悴した顔を見られたあとで何かあったのかと問われれば俺は答えずにいられるはずもない。ここへ来る途中でコロネロに言ったことと同じことを博士と彼女にも打ち明けた。
ぽつりぽつり話している途中でビアンキさんがホットミルクを作ってくれて、俺はそれを受けとって一口飲むとようやく気分が落ちついてきた。
「それで、コロネロはツナの部屋の中を見てまわったんでしょ?どうだったの」
コロネロは俺の顔を一瞥してからばつの悪そうにそっけなく言った。
「──部屋には誰も居なかったぜコラ」
「それは…きっとコロネロが調べに行ってくれたから…居なくなったんだと思う…」
「かもしれませんね」
博士が俺の意見に賛同する。そこに否定で返したのはコロネロだった。
「ツナ。オレが確認したのはそれだけじゃないんだ」
「え…?」
「お前、中からしか解錠できない内鍵を外側から開けられたって言っただろコラ」
「う、うん…だってゆっくり鍵が回るのをこの目で見たもの!間違いないよ!」
コロネロは何かを探すようにジッと俺の顔を見てくるので、俺は心臓が早鐘打つのを否応に感じる。
「締まってたぜ、内鍵」
俺は目の前が突然真っ暗になったような不安に襲われた。
「うそ…、嘘だ!」
「嘘じゃない。…オレが聞いたのはお前の声だけだ。あのときお前の声と悲鳴で異常を知ったんだ」
「俺は嘘なんてついてないよ!」
「………」
「──嘘じゃないかもしれない。だがそれは君の言うことが事実であるという証拠にもならないだろう?」
「ヴェルデ博士…」
博士はつづけて俺に忠告する。
「この館は百年を超える建造物だ。老朽化で幾分か締まりの悪いドアノブもあるということだろうね。それに今日は風も強い。どこからか隙間風が入りこんでそれが廊下づたいに君の部屋の扉をゆさぶったのかもしれない。そして君が主張する内鍵はコロネロ君いわく施錠されていた。それならば開くはずがない。となると答えはひとつだ」
その分析を俺はぼうっとした頭で聞いていた。次の博士の言葉は俺の思考が反芻することを拒否してしまって何を言われたのか咄嗟に判断ができなかった。
「綱吉君。君は住み慣れた家ではない部屋での孤独から極度の不安に陥り幻覚を見たのだ。何か起これば隣の部屋の友人が来てくれると知っていたから自らの保身行動を正当化しようと幻視に及んだのだろう──」
「ツナは本気で怖がっていたんだ。そこまで言う事ねぇだろコラ!」
座っていた木椅子を押し退ける勢いでコロネロが博士を責める。
「事実をそのまま伝えるのに何を躊躇うことがあるのかな。君も綱吉君のためを思うなら物事ははっきりと伝えるべきだ」
「……テメェ…」
コロネロの雰囲気が険悪なものになりそうだったので俺はいそいで彼の袖を掴んだ。
「コロネロ、ありがとう。いいんだ…だから……ごめん。博士の言うとおりだよ、俺…は、きっと寝ぼけていたんだよ」
「ツナ」
「心配、かけてごめんねコロネロ」
「……いや、気にするなコラ」
「博士とビアンキさんも…夜なのに騒がせちゃってごめんなさい」
「私はかまわないけれど…ツナ、あなた大丈夫?」
「うん。…ごめん。俺…もう寝るね。話聞いてくれてありがとう。…おやすみ。」
苦く笑いながら皆に手を振りキッチンを出て寝室へつづく階段を上る。
「……ッ!」
二階をひとりで歩いていると涙がつぎからつぎに溢れて止まらなくなってしまったので俺はふりきるように走って部屋へ戻り、そのままベッドへ倒れ込んだ。
──ビアンキさんの心配する声が苦しかった。
──博士の言った真実の言葉が辛かった。
──俺をかばってくれたコロネロの目が悲しかった。
「い、た……痛い…」
ベッドの中で背を丸めながら俺は泣いた。胸が苦しくて、刺さされるような痛みを感じた。でも何が痛いのかわからなかった。
「……かあさん」

こんな時は母さんが傍にいてくれた。でももう母さんは居ない──…居ないのに!俺は苦しむことから逃れられない!

「母さん!…どうして俺を残して死んじゃったの……っ!!」
二ヶ月かけて心の中に納めてきたはずの感情はまだ俺の中で渦巻いていて、シーツをかぶって枕に顔をうずめたまま俺はそれを声に替えてありったけ叫んだ。
もう一人で生きていかないとならないんだという気持ちが有無を言わさず俺を後押しした。悲しくてやりきれないこの気持ちが誰かの前で爆発する前に吐きだしてしまわないといけなかった。



          * * *



部屋のすみに佇む夜闇を撫でるように白いカーテンのすそが揺れていた。
細かいレース模様が天井に届くかと思われるほど一度だけ大きくふわりと弧を描く。なのに部屋唯一の明かりである母衣(ほろ)に入った蝋燭の火が消えることはなかった。
その灯火がベッドのすぐそばの壁に黒い影を縫いとる。
子供ほどに小さな人影だ。
その影の持ち主はジッと目の前をみつめていたが、被っていた黒い帽子をぬぐとそっと手を伸ばしてベッドの中で疲れた顔をして眠る童顔の男の髪を一度だけ優しく撫でた。
「ん…」
白い吐息まじりに小さく身じろいで仰向けになった男の頬には乾いた涙の跡があった。それを見つけると子供は幼さのない落ちついた所作で瞑目し、前にかがんで彼の頬と額に小さなキスを落とした。


(ツナ、ツナ…やっと会えた)

幼子の外見をまったく裏切る感情を捨て去ったような無表情にほんのわずかな気色が灯(とも)る。
ながいあいだ待ち望んでいた色を持った声はしかし子供の口から直接出たものではなく、反響しやすいように作られているこの寝室の力を存分に借りてようやく声らしい音に成ることが出来たというような頼りなさを持っていた。