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先に戻ったビアンキさんの後を追うように応接間の扉を開けると、中にいた人たちが一斉に俺たちの方を向いたのでとたんに気まずくなってしまった。
「あ…あの…、遅れてしまってすみません…」
「君が──綱吉君…ですね?」
「ええ、そうです。あなたは──」
「これは失礼」
俺に名前を聞いてきた白衣の男性は円いレンズの眼鏡をかけ直しながら軽く会釈する。
「初めまして、というべきかな?心理学研究のヴェルデです」
「あなたが?」
「おや、どうやら綱吉君は想像していた人物と私のイメージが違っていたようだね」
「あっ…いえ!もっと俺なんかより年上の人だと思っていたので…!」
グリーンの短髪が特徴的で背の高いヴェルデ博士は俺なんかがイメージできるようなステレオタイプの『博士』じゃなかった。
同じ白衣を着ていても母さんの診察をしてくれたお医者と違い職業が身に染みついているという様子は全く無いのに、この方面のプロフェッショナルである凄みのようなものを内側にもっている雰囲気を俺は感じ取る。
「私も、ここへ待ち合わせてみれば君のお連れの、招待した覚えのない客の姿しか見えないので焦ってしまいましたよ」
「悪かったなコラ」
臨床実験をおこなうその性質上同伴者は認められないことを事前に書面で通達されていたので俺はとにかく頭を下げるしかなかった。
「すみません、俺が車を運転出来なかったので……」
「ヴェルデ博士、アンタが許可してくれるんならオレはここに留まって今回の研究が終わるまで待ちたいんだがいいか?研究の邪魔はしない」
コロネロがそういうつもりで来たのだと知らなかった俺は驚いた。
「君は招かれざる客だと言ったはずだが」
けれどコロネロはがんとして譲らない目でヴェルデさんを睨めつけ続けるのでやがてヴェルデさんが折れた。
「…まあ、いいでしょう。但し──コロネロ君といったね?部外者に屋敷の中で待たれていては私の気が散る。君も私の研究に参加するように。ビアンキさんと綱吉君と同じテストを受けてもらいます。価値は低いが私は健常者としてのデータを頂くことにしましょう」
「ああ、助かるぜコラ」
張り詰めた空気が大の苦手な俺はホッとして胸をなで下ろした。
「ありがとうございます」
「仕方がありません。さて──」
背後へ目配せすると後ろで控えていた人たちが俺たちに会釈する。
「私の研究室で助手をやっているキアラとカルロです。これから一週間のあいだ君たちのサポートをします」
キアラさんは大人しい感じの女性で、コロネロと同じくらい背丈のあるカルロさんは口髭をたくわえたどっしりした感じの男性だった。
「そして君たちの朝と夕の食事を用意してくださるこちらのご婦人はご夫妻でこの館の管理をされています」
「ギナッツィです、ラウラ・ギナッツィ。あなた方へいくつか伝えておくことがあります」
この館へ来るときに門を開けてくれた人と同じ眼差しで俺たちを真正面から見つめる。多分それがご婦人のいつもの応対なのだと自分に言い聞かせはするものの、睨みつけるような力強い視線が苦手で居たたまれなくなった俺は思わず視線を逸らした。
「私はあなたたちの食事を作りますが配膳はしません。電話はありませんし、このとおり里離れた場所にあるので電話があってもつながりません。必要以上にあなた方と関わりたいとも思いませんので、私と夫は日が暮れる前にこの館を出て、朝にまた食事を作りに戻ってきます。この館で心理学の研究をなさるのは結構ですし、くつろぐのもご自由に。ただしこの館の調度品には価値があり、あなた達よりも歴史あるものであることを忘れないように」
「──カタい女ね」
となりに来ていたビアンキさんが眉根を寄せて笑いながら俺に小声で耳うちする。ギナッツィ婦人は食事の準備を続けたいのでと博士にことわりをいれるとキッチンへ行ってしまった。



          * * *



横に広いダイニングルームで食事を済ませると博士が談話室に俺たち三人を呼び集めてこの館にまつわる昔話を聞かせてくれた。気分を和やかなものにさせようと気を配ってくれたキアラさんがグランドピアノを弾いてくれる。
「さて、皆ももう知ったと思うが、この館に主は不在でね。この館の維持管理を代々まかされてきたギナッツィ家が今も館の維持に貢献している」
「これだけ広い屋敷なのに給仕はあれだけしかいないの?」
少し驚いた口調でビアンキさんがたずねる。
「この館で人の暮らしがあった当時はいくらか召使いも居ただろうが今はあの夫妻しか居ないようだ。町の人々は今でもこの館を避けているから仕方のないことかもしれないが──」
「避ける?…この館に何かあるんですか?」
博士の言い方にひっかかりを覚えて考えるより先に口が出てしまった。博士は俺をチラと見遣る。
「正確に言えば町の人間はこの館の主を避けていた。ギナッツィ家は管理を任されるくらいだから一定の信用を得ていたようだが、それでも目に見えない確固とした隔たりを感じさせるくらいこの館の主はたいへんな人嫌いだったらしくてね」
「主って…あの大きな階段とシャンデリアがあるホールに掛けられてる大きな肖像画の人ですか?」
「そう、エントランスホールの肖像画に描かれた彼がこの館の主だった。名はリボーン。リボーン・アルコバレーノ氏だ。人知れずこの地へ移り住み、なりわいとした建築で一代で財を成した。彼が設計しこの国の遺産に指定されている建築物だけでも二十を超える。この館もリボーン氏が設計した建築物だよ」
俺だけじゃなくビアンキさんとコロネロも思わず内装の装飾を仰ぎ見てしまう。
「すごい人だったんですね」
「そう、力のある男だったようだ。だが人嫌いの性格と人間離れしていた技術力が仇(あだ)になって良くない噂が後を絶たなかった。ただでさえ閉鎖的な地方の町はよそ者を嫌うからね」
「跡取りが居ないなら彼ずっと独り身だったの?」
談話室のアクセントになっているグランドピアノに背を凭せていたビアンキさんは飲んでいたワインのグラスをサイドテーブルの上に置くと博士に尋ねる。
「いや、妻も娘も居たようだ。だが二人ともリボーン氏より先に亡くなった」
「娘さんまで?どうして?」
博士は口を一度閉じて、聞かれてはならないという慎重さをもったようにゆっくり言葉を選んだ。
「──殺されたんだ。実の家族であるリボーン氏に」
そのとたん、談話室全体がシンと静まりかえった。背中に例えられない悪寒がはしる。博士の言い方は実際見てきたとでも言うように真に迫っていて俺は身震いした。
「なにが原因かは今でも分からないままだが、彼はある日を境に変わってしまった。凶人(きょうじん)になり果て、妻を温室で殺した。娘の遺体はまだ見つかっていないそうだ」
「………」
沈黙が談話室を支配する。きれいで静かな曲を弾いていたキアラさんのピアノの音もやんでいる。
「リボーン氏は法に裁かれることを嫌ったのか妻を殺害後まもなく書斎で自殺した。──この館が町の人間を寄せつけない理由はそういうことだ」
「………」
生唾をのみこんで俺は助けを求めるように、話を聞いても平然としているコロネロを見た。コロネロは俺の顔を見るなり少し驚いた顔をしてから笑って返し、俺の頭を撫でてくれた。俺は自分が感じていたよりも怯えていたみたいだ。
「ヴェルデ博士──それだけではないと思います」
「キアラ?なぜそう思う?」
名前を呼ばれた助手のキアラさんはカルロさんが片手を取って諫めようとするのにも負けず凛とした口調でいいつのった。
「私、人の目に見えないものを敏感に肌で感じとる力があるんです。今日のこの館の様子を見て…博士の説明以上の禍々しい空気があるように思うんです。そして…ひかえめで憂いのある気配も──」
音を響かせるために高く持ち上がっているグランドピアノの弦の上蓋に手を添えて一番高音のキーに触れた。その時だ。
「キャアッ!!」
「!!」
キアラさんの顔の近くで細く輝く筋のようなものが空間を走ったのを俺は見た。反動で仰け反ったキアラさんがその場にしゃがみ込んだその背後ではグランドピアノの内部で破裂音がこだましている。
「キアラこっちへ──!」
カルロさんに両肩を抱きかかえられながらヴェルデさんに顔を診せる。額から目蓋の上にかけて皮膚がぱくりと割れて赤い血の筋が滴っていた。
「ひどい傷…」
「目の中に血が入らないようにグラスを当てるんだ。清潔な布も──!」
痛みがひどくて泣き続けるキアラさんの状態を診た博士がカルロさんに指示を飛ばす。ビアンキさんとコロネロも的確に動くなかで俺は何をすれば良いのか分からずずっと凍ったように動けなかった。



          * * *



介抱をつづけたことで落ち着きを取り戻したキアラさんだったけれど、傷が目に損傷を加えているかもしれないことを危惧して、大事をとってその夜のうちにカルロさんが市の病院まで連れて行くことになった。
町には医師が居ない為に市まで赴くことになったのだが距離的に明日帰ってこられるかも微妙なところだと博士は沈痛な顔をした。
鎖と錠を解いた門からキアラさんとカルロさんの乗った車を見送って談話室に戻ってくるとコロネロがグランドピアノの前で何かを調べていた。
「──コイツの弦が弾いたはずみで切れたんだなコラ。人為的な力が加わっていた痕跡は無え。単純に古くなって切れたみたいだぜ」
コロネロが手掴んだ弦の切り口は強い力で引っぱりすぎてはじけたように細かく枝分かれしていた。後ろから見ていた博士はそれを嫌そうに確認すると肯いた。
「検証をありがとうコロネロ君。だがこれ以上は人を減らしたくない、上蓋は閉じておいてくれるか」
「ああ」
博士は無感動に呟いてから眼鏡をかけなおした。
「弾くのをやめさせておけばよかった。はじめにこんなことでは折角の研究に支障を来(きた)してしまう」
博士のその言い方に俺はひっかかりを感じたけれど、立場的に助手の心配をしていられないだけなのかもしれないと思い、喉まで出かかった言葉を慌ててのみこんだ。