あのひとこと。
現実の僕は言えただろうか。やっぱり言えなかったのだろうか。
かんじんな時に逃げてきてしまった僕はそれを知ることはできないまま、夢のなかの木陰の下で膝を抱えて座っていた。
僕はツナ兄が好きだった。大好きだった。でもだから、顔を上げることなんて出来なかった。
(ツナ兄…)
ツナ兄はここを出て行ってしまった。さよならを告げたのは僕の方だ。ツナ兄はこのちっぽけな僕の世界にはふさわしくない、そう知ったから。何も言わず出口を指さして、ツナ兄にさよならした。
(ツナ兄…)
僕は心の中で空を見る。雲ひとつない明るくて澄みきってどこまでも広いツナ兄みたいな空だ。僕はそこに手を伸ばす自分をイメージした。伸ばした手は空を切って何も掴みはしなかった。
(まるで僕は──)
僕は力なく笑った。このちっぽけな手に空がおさまる訳がないのに、いままでずっと気がつかなかった。こんなに簡単な事だったのに。
僕は星。嵐も無く、太陽も無く、雲も無く、雷も無く、雨も無く、霧も無い時にしか空と一緒に存在できない。空が平和な時にしか姿を出せない。傍に居ることもできない。ツナ兄が大変な時には何もすることができない。それが悔しくてたまらなかった。
「フゥ太は星で俺は空なの?」
その声におどろいて僕は初めて顔を上げた。
いつの間にか横に座っていたツナ兄は今日の天気を訊ねるような調子で両脇に手を付いて青空を見上げていた。
ひどいことをした僕を前にツナ兄の様子は新品のシャツみたいにまったく変わらない。だから僕はそれを僕が寂しさから作り出した幻だと知った。
「うん。だから、遠いところに居る僕が守護者達よりツナ兄の気持ちを分かってあげられる訳なかったんだ」
ツナ兄が好きなのは皆が自分の意思で生きられる世の中。でも僕じゃ、なにもかも排除したこんな作り物の世界でツナ兄を縛り付けることしかできなかった。ツナ兄に喜んで貰うためと言いながらそれを免罪符にしてツナ兄を曝こうとした。
アイデンティティを奪われ殺されるのが嫌で逃げ出して世界中から追われる身だった僕が『自由』の意味を分からないハズがなかったのに。
「悔しいけど、僕はここまでなんだ」
守ってくれているぶん守りたいと欲を出した結果がこれだ。ツナ兄のためには何もできないと自分で証明してしまった。ツナ兄のためにツナ兄の傍に居る。守護者にとっては当たり前でも僕にその力は無い。
僕自身のためにツナ兄の傍に居るだけ。
ツナ兄を利用しているだけ。
「知ってたよ」
目を閉じて、心の底からの想いをひらいたようにゆっくりとツナ兄は言葉を紡いだ。
「フゥ太がそう思っていること。でも俺は、フゥ太がただ俺を利用するためにここにいるんじゃないって知ってるよ」
「ツナ兄は…何も分かってないよ」
「分かるよ」
「わかんないよ。……スモーキンボムの方がよっぽど正確に僕のこと知ってたもん」
ゆるく歯噛みしながらあの時のことを白状する。それでもツナ兄はゆるがなかった。
「分かるさ。──俺が空でフゥ太が星なら、さ」
顔をうかがうように覗きこんできたツナ兄は僕と目が合うと目尻を弛めた。
「少なくとも地球上で、獄寺君やランボ達よりも、フゥ太に一番近いところに居るのは俺だもん。」
そうだろ?と、鼻を啜りながらちょっと得意気にツナ兄は言った。
「ツナ…兄……」
ランキングなんかじゃ、人と比べたりなんかじゃ到底計れない誰よりも優しいツナ兄。僕はたまらなくなってツナ兄の胸に飛び込んだ。温かい背中に両腕をまわしながら一心に願った。
僕が作り出したツナ兄と同じ事を言ってくれなくてもいい。ただ、本物のツナ兄に会いたかった。
* * *
「ん…うん…」
体の右半身が柔らかいものに包まれているのを感じて、重い腕を使ってまぶたをこすり、眠い目を無理矢理こじ開ける。服越しに触れているのはベッドの感触だった。
「ツナ兄の…ベッド…?」
いよいよ目が夜闇に慣れてくるとはじめは薄ボンヤリとして分からなかった景色のすぐ近くにツンツンした頭が見えた。
「ツナ兄?」
静かな寝息を立てながらツナ兄は僕に背を向けて眠っている。いくら小柄な僕とツナ兄とはいえひとつのベッドで眠るには窮屈なはずなのに、と不思議に思っていると僕は今の体勢から理由を知った。とても深く眠り込んでいた癖に背中から抱きついたままツナ兄を離さなかったのだ。後で起きるつもりだったのだろう証拠に、僕はパジャマに着替えさせて貰っていたのにツナ兄は秋祭りの時の格好のまま眠っていた。
(どうしよう…起こした方が良いかな…)
でもツナ兄の寝息はとても気持ちよさそうで、僕は自分の身じろぎすら躊躇ってしまう。
ぐるぐる頭を悩ませて、取りあえずこのままじゃ暑いだろうし解放してあげようと胸に回した腕を引っ込める。そのとたん、僕が思いつきもしなかった災難がツナ兄を襲った。
「うう〜ん…」
「わっ!ツナ兄危ないよっ」
所かまわず寝返りを打とうとしたツナ兄がベッドを転がり床へ頭から落ちそうになったのに仰天してすんでのところで腰ベルトを掴んで食い止める。僕の両腕がストッパーになっていたみたいだった。ベルトをぴんと張らせた無理な姿勢のツナ兄はまだスヤスヤ眠っている。
「落ちちゃうよ〜っ!つーなー兄ぃ〜っ!」
力を振り絞って思いきり引き戻すとどうにか床に転落するのを阻止することが出来た。なのにツナ兄は口の端からヨダレを垂らしながら寝こけている。ものすごい寝汚さだ。
「ツナ兄ってば…平和な時は本っ当だらしないんだから…」
商店街で貰ったポケットティッシュの存在を思い出して僕はツナ兄のヨダレを拭いてあげた。ツナ兄のことを尊敬している気持ちに嘘は無いのに、同時にとびきりズボラな実の兄の面倒を見ているような妙な気分になった。ツナ兄は絶対否定するだろうけど家に帰ってきたらとことん締まりが無くなるこういうところはツナ兄のパパンそっくりだと思う。
そんなことを思っているとまたツナ兄が寝返りしかけたので慌ててベッドを降りると反対側にまわってツナ兄を押し返した。このまま安全な壁際に寄せておいてあげれば何とか落ちずに済むかなと思い、今までツナ兄が寝ていたテーブルのある側に寝床を陣取る。
「ふふっ。僕がここに居るから安心して寝ていいよツナ兄」
全然大したことじゃ無いのに、聞かれていないことを良いことに得意気になってツナ兄にアピールした。
「ありが…と、フゥ太ぁ…」
「……っ。」
心臓がきゅっと縮んだのが分かった。寝言だったから尚更びっくりしてしまう。ツナ兄は寝てても僕のことが分かるのかと思ってしまった。
何度もツナ兄から命を助けて貰ってる僕がまさかこんな小さなことでツナ兄に感謝してもらえるなんて夢にも思わなかった。
「ツナ兄…こんな事でいいの?」
思わず僕は訊いてしまった。でもツナ兄からの返答は静かな気息音だけだった。
返事も返して貰えなかったのに、僕は一体どうしたんだろう…──今、胸がすごく温かい。
力が無い僕にも、僕しかできないことも、あったんだ。
「僕の方こそありがとう。ツナ兄」
泣きたくなるほどの心地よさから溢(あふ)れた気持ちを形にととのえると口からようやく押し出した。そうしたら、ツナ兄が笑って受け取ってくれるお礼をやっと見つけられたような気がした。
おかしいね。秋祭りの後は謝ることが僕に出来る最大限のことだと信じていたのに。でも──
起きたら、朝が来たら、もういちど言うね。そう心のなかでツナ兄に話しかけながら、僕はふたたびまぶたを閉じた。
<おしまい>