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「ぬおっ。」

肌寒い冬もそろそろ終わろうか、のどかな春がそろそろ小走りでやってくるか、そんな季節のことである。時は夜の午後八時、夕飯前。並盛大学一年生の笹川了平は自宅の風呂場で素っ頓狂な声をあげた。大学付属のボクシングジムから極限DASHで帰宅したとたん、キッチンのかわいらしいのれんを上げて妹の京子が顔をみせ「お兄ちゃんおかえりなさい。ご飯にする?それともお風呂さきに入る?」と尋ねられれば迷わず「うむ風呂だ」と簡素に応える了平のシャツはぐっしょり汗でぬれていた。汗をかくのは極限の証明だ!と思いはするが別に好き好んで汗臭くなっておきたいわけではない。だが暑苦しいと称されることは多々ある。五年前、沢田家の一人息子に《晴れの守護者》とかいうよくわからない称号までもらってしまったので、自分がまわりからどう見られているのか了平にもそれなりの自覚はあるのだ。

芝生頭のてっぺんに乗せていた手ぬぐいを湯船のへりに置いて天井を見上げる。さっきまで風呂場を煌々と照らしていたはずの丸い照明はくらやみの中に沈んでしまって自力で復活する様子はなさそうだった。電球が切れたかブレーカーが落ちたか、どちらにしても親が旅行中で不在の今は俺が動かねばならぬなと思い至り、手ぬぐいを肩にかけて脱衣所に置いていたバスタオルをきりりと腰に巻きつけた。







家全部の照明が消えていたのでブレーカーが落ちたのだと見当がつく。そこでまず了平が様子を見にきたのはキッチンだった。
「京子」
のれんの後ろから妹の名を呼べば姿は見えないもののしっかりした返事が返ってきた。
「あ、お兄ちゃん大丈夫?」
「大丈夫だ。お前こそ怪我はないか? 火を使っていただろう」
「うん。でも消したし大丈夫だよ」
怪我ばかりする兄をもったために随分心配性だが、炊事をはじめとした家事などいっぱしにこなしてみせる我ながら出来た妹だと思う。沢田ならば嫁にやっても良いかもしれぬとは思うが、沢田が妹のことを好いているという噂はとんと聞かないので了平は特になにするでもなく静観をきめこんでいる現状である。
「そうか。ところで京子、ライトを知らんか? 電気の具合を診たいのだがこう暗くてはブレーカーのフタを開けることもままならん」
「でも最近使ってなかったよね…えーと…どこだったかな…」
「わからんか?」
「ううん…玄関のほうにあったような気がする」
「そうか。ならば俺が探す」
そういって踵をかえし、玄関の物入れをガサゴソと探してみるが、いっこうにそれらしいものが見つかる気配がなかった。
「うむ…どうするか…」
芝生頭をがりがりと掻きながらブツ切りの記憶の糸を辿っていると、ふいに背後から気配を感じた。

「なにやってんだコラ」
コロネロである。初対面から五年もの歳月を経た今、体格はずいぶん良くなり高校生といってもさし支えないほどの背丈を保持している。アルコバレーノきっての格闘系である彼はマフィアランド管理人と笹川了平のボクシングトレーナーという二足のわらじを履いて生活していた。近ごろは平和になって往復に民間機を利用することが多いのでマイルも貯まりまくりである。
「おお、師匠だったか! 実はライトを探しているのだ」
「ブレーカーか? んなもん適当に検討つけて直せねぇのかコラ」
「うむ。そう思ったのだが、前に変なところを押して余計に壊れたことがあるのだ。同じ失敗はできん」
「なら俺が直してやるぜ。どこにあるんだ?」
「師匠が! それは極限ありがたいな! あれは脱衣所の真上にあるのだ」
コロネロが玄関をはなれて少しも経たないうちに、二三度まばたきがあって何事もなかったかのように照明は点灯した。瞳孔がきゅきゅっと縮こまったのをゲンコツでこすっているとコロネロの呆れたような顔が見えた。
「了平、お前の場合力が強すぎるんだ。普段の加減を覚えろコラ」
聞けばブレーカーのスイッチが折れていて補強した跡があったらしい。なまじ細胞に粘り気がある了平は一辺倒な性格もあいまってトレーニング後にペットボトルを握りつぶしてしまったり弁当の箸を折ってしまうことがよくあり、馬鹿力は悩みの種となりつつあったのである。
痛いところを指摘されたので窮して頭を掻いていると、鼻腔をくすぐるような良い匂いが漂ってきた。キッチンのほうからやってくるそれはスパイシーな香辛料の香りである。
「お兄ちゃん、コロネロ君も。ご飯できたよ」
金曜日はカレーの日、と水兵のようなことをしていたコロネロが特に言った覚えはないのだが、笹川家は金曜日に大抵カレーを食うのであった。







「おいしい?」
「うむ。極限にうまいぞ!」
「ああ、うめぇぞコラ」
「そっか。よかったぁ」
ほがらかに微笑む妹にカラとなった皿をふたりして突きだす。それへ大盛りを盛りつけてまた返し…とそんなやりとりが早くも三度目である。三人きりの夕食にも関わらずコメの五合を炊いている京子も勝手知ったる様子で別段おどろいた様子もない。
了平と違ってコロネロは日常茶飯事に体を鍛えているわけではなく、特別に了平のスパーリングにつきあっている時以外はトレーニングをこなしているという姿をみることはないのだが、負けず劣らずよく食べる。因みに、以前は頭に停まらせていたファルコもなかなか立派な猛禽類に成長し、さすがにコロネロを掴み上げて飛ぶことはなくなったが、主人手製の餌をよく食べ、尾羽のすみずみまでツヤのあるその風貌はみごとのひと言に尽きる。

腹に収めるものもあらかた収めてしまうと、了平は満腹感とともに「うおー今日も食ったなぁ」と伸びをして腹ごなしをした。大学生だというのに子どものように両手両足を伸ばして万歳をする、そんな毎度お馴染みの格好を見てクスクスと京子に笑われるのも日常の決まりきった一コマとなっている。
「お?」
上下がさかさまになった視界で、自分の背後にあった新聞ラックに目が留まった。新聞を読むのは親の趣味で、普段新聞など読みもしないのでそこに目がいくことは滅多にない。のだが。正確に言えばそこに挟まっているオレンジ色の広告紙に目がいったのだ。
「───おお、このあたりに出来たのか!」
「どうしたの?」
おもむろに立ち上がって一枚の広告をラックから抜き取るなり感動をあらわにする兄を不思議がって妹がたずねる。
「うむ。俺が通っている大学ジムのあたりに銭湯ができたらしい」
了平がそれを二人に見せつけると、そこでは《スーパー銭湯》という六文字がやたら達筆な風体で紙いっぱいに躍りまくっていた。あまりにタイトルがでかいのでパッと見何が言いたいのかよく分からないチラシだったが、どうやら、オープンしてしばらくはサウナなどが破格のお値段でお試しいただけますよ、という内容の広告のようだ。
「銭湯とは久しぶりだ。明日にでも行ってみるか」
「面白そうだなコラ。おい了平、俺も行くぞ」
鼻歌交じりにつぶやけば、チラシを眺めていたコロネロからも快い返事があった。
「師匠も来るか! 極限了解した!」
言ってから師匠との裸の付き合いは初めてだな!と気がつく。典型的な昭和男の気質を持っている平成生まれの了平はますます明日が楽しみになるのだった。