そういうわけで一路銭湯へやってきた二人はバスタオルに替えの下着、ケロヨンの黄色い手おけに手ぬぐいと石鹸を入れてずんどこ参戦した。だが、近年の銭湯はあらかた物が揃っているためわざわざ商店街で揃えてきた手おけと石鹸はさっそく無駄になってしまった。
蛇足だが、昭和の男が近年の銭湯ではじめに驚くところは、ある意味男の憧れでもある「番台」が姿を消しているところだという。プライバシー上の問題というところなのかその代わりなのか何なのか、湯のほうで男と女を隔てる間仕切りの上部はいまでもどっかり開いており声は筒抜けである。よって、駐在さんのお世話になる覚悟をした上でその気になれば覗くこともできてしまうのである。
だが、銭湯の内装もろもろが変わったといっても来る客層が激変するわけでもない。
特にここ並盛町では危険を冒して女風呂を覗いてみても膏薬を塗った婆さんたちの背中が見えるだけである。後ろならまだいいが、玄孫(やしゃご)が居たりする女性の前姿は冒険心溢れる男どもにとって大変な危険をともなうのだった。
そんなスーパー銭湯にやってきた了平とトレードマークでもあるバンダナを外したコロネロはさっそく頭を洗い、体を洗ってサッパリしたところで湯船に浸かった。いわゆる“外人さん”のくくりにはいる金髪碧眼のコロネロだったがそこら辺のマナーや常識はへたな大人よりも心得ている。住まいを一箇所に留めず方々移動する生活スタイルをとっているためか、郷には入らずんば郷に従え、という格言以上にそういう心構えが身についているようだった。
前髪をうしろへ撫でつけた格好で伸びをするように息を吐き、肩まで浸かると「良い湯だなコラ」と白い歯を零して笑ってみせるその風情。師弟ともに無駄な肉付きなど一切ない。了平には敬愛する師匠としてしか映らないが、ことにコロネロは理性を忘れた婆さん達から逆覗きをされてもおかしくない異国美形特有の抗いがたい色気を図らず振りまいている罪な男である。
「おい了平。勝負しねぇか?」
「ぬ?」
顔に湯を浴んでいるとコロネロから挑戦的な声がかかった。横へ向けば顎で誘導された。コロネロが指し示した先には木製の重そうな扉がある。その横っ面にはかなり大きな室内温度計と湿度計があり、小窓からはオレンジ色の温かいを通り越して熱そうな光が見える。
「サウナか! 久しぶりだな! 望むところだ!」
「そうこなくっちゃな。面白くねぇぜコラ」
気心の知れた師弟は勝負事に関しても同じレベルで熱くなるのだった。
*
「なぁ了平。あいつは何とかならねぇもんか?」
二十分も経ち、あらゆる汗腺から汗がふき出してくるがまだまだこれからという時、隣に腰を下ろしている師匠から相談を持ちかけられた。
師匠から話とはそうそうあることでは無いなと思い、尋ねてみれば実妹の京子のことについてだという。
「京子が師匠に何かしたのか?」
「いや、何かしたってわけじゃねぇんだが…」
感情をあまり面に出してこない真顔に腕組みがこの男の基本姿勢である。にも関わらずコロネロが頭を掻いた。これは珍しいことだと了平はさらに思う。
「お前の家にやっかいになっている時の風呂についてだ」
「風呂か? 俺の家の風呂がどうかしたのか?」
「ああ。以前はまあいいんだが、あいつ未だに俺を風呂に入れたがるんだ」
「なんと! それはまことか!」
「聞いてみりゃ、六歳ってトシから考えればまだひとりで入らせるのは危ないからやめてくれなんて言われたぜコラ」
首筋を意味もなくなでるその様子に随分悩んでいることがうかがえる。
「俺から何遍言おうが効果ナシだ。だから京子にお前から言ってくれねぇか?」
「うぬ…だが俺から言っても聞くかどうか…師匠も知ってると思うがあいつの強情さは折り紙つきなのだ」
「んなこた分かってるが俺はガキじゃねぇんだぜコラ?」
「うむ」
「だから俺も困んだよ。五年前と今じゃ俺の身体も違うんだ。あいつ自分の身体が惜しくねぇのか?」
「そういうわけではないと思うが…」
サウナに沈黙がおりる。しばらくして了平の頭皮がちりちりと熱くなってきたところで、コロネロがふいに閃いたというように軽く膝をうった。
「男だな」
「男?」
「ああ。京子に野郎のひとりでもできれば俺に注意が向かなくなるんじゃねぇかコラ?」
「そういうものか?」
「京子がそうかはなってみねぇとわからねぇがな…となると相手は沢田だな」
「さわだ…沢田!?」
何だ。知らねぇのか?と逆に聞かれてしまい、了平はその時だけすこし寂しいような心持ちをおぼえた。闘争心の強さを極限アピールするはずの眉尻がモヤシのヒゲの様にしょんぼりと垂れ下がる。
コロネロのほうへ意識を戻せば返された彼の、早くどうにかしてくれねぇと俺の身が保たねぇ、と心の底からの溜息を吐かれてしまい、了平も珍しく言葉に窮した。
だがそれも一瞬のことである。
必要なことも三秒経てば忘却するトリ頭の了平なので、湯上がり一本の珈琲牛乳を飲み干す頃には綺麗サッパリ忘れているのだった。
「やはり湯上がりはこれに限る! 極限うまいな師匠!」
「…お前ら二人ともその天然どうにかしろよコラ」
七面倒くさいことには関わりたくない、人のあり方についてとやかく言うなどしてこなかった師匠がうんざりした顔でメモパッドとペンを調達してきて首からぶら下げろと弟子に命じる事になるのはそう遠くない未来のことであった。