闇の中で気が付くと目の前に人がいた。背中を向けていて顔は見えない…いや、少しだけ見える血色のいい首筋とひかりを跳ね返す腕時計の文字盤。それ以外は漫然と闇に溶けていた。熱波のように艶めかしく、威圧感のあるおとなの人。この人がもしバネのように強い首をしならせてこちらを見れば、居たたまれなくなって俺は目を背けるだろう。それくらい、すらりとしているのにがっしりとして見えるような…不思議な風貌で俺の意識を惹きよせて離さない人だった。
でもどこかで見たことのある人。…でもやっぱり知らない背中だった───
───よくわからない夢を見た。
夢のおわりに、針で刺したようなちいさな光が見えた。暗くならないと見えないひかり。でもやさしくて暖かそうだから必然と向かって手を伸ばした。結局触ることはできないのだろうけど。…だって今思えば俺ひとりには勿体なさすぎる。触って、包んでしまったらこの光を俺しか見ることができなくなるなんて───ましてや、俺ひとりで握りしめて誰にも触らせない、放さないだなんて!───ダメツナの俺にはとうてい無理な話だ。(それこそイジメ以上の悪い“冗談”だ)
冷静になってから思い返すとその暖かさは俺にとってすごく身近な好きな女の子の目にやどっているひかりによく似ていた。夢から覚めて夜を感じて、冷静になってみてもあの夢の中の判断は正しいのだと、悔しいけれどその気持ちは変わらなかった。お前には大好きな人を感情のままに縛る事なんて絶対にできない。ピシっと目の前で突きつけられた気分だった。
「……今、何時だっけ…」
母さんが干してくれた枕に突っ伏して探り当てた目覚まし時計を握り、体を引き寄せてすがりつく。かろうじてスジのような蛍光塗料が見えた。
───午前二時だった。
まだ俺の頭はぼんやりとしていて、両まぶたと布団のぬくもりがしまりなく眠りの世界へ誘惑する。
あんな夢を見たあとだから意識をハッキリさせたいのにまどろみから抜け出せない。うっとうしい眠気を振り切るように、上体をのそりと起こして跳ねていたねぐせを掻きむしればひやりと冷たかった。
昼には枯葉が落ちはじめていたけど、真っ暗な夜にはもう冬が来ていた。
「眠れねぇのか?」
壁ぎわの上の方から声がした。分かっていたけど思わず反射的に視線を向ける───リボーンだ。
「あ、リボーン。ごめんな、起こしたみたいで」
「オレは起きたいときに起きる。教え子に眠りを妨げられるなんてマヌケな事は一度だってしてねーぞ」
…にべもない態度に俺の自嘲の笑みは凍った。俺の反応を知ろうが知りまいが飄々としたものでリボーンは起きあがりもしない。セロファン並みにうっすらとした気遣い(気遣い?)は今に始まった事じゃないけれど…
リボーンは俺と背が近くなって、たまに兄弟と間違われるようになってさえ未だに、夜は部屋の桁と桁に張ったハンモックで休んでいる。
今から一年くらい前だろうか───
すこし窮屈らしく、見ている方もあんまり快適そうに見えなかったから俺はハンモックじゃないと寝られないのかとリボーンに聞いたことがある。そうしたら僅かに哀れむような目で「ツナの部屋が狭いんだぞ」と切り返された。そして、「一定の余裕がねぇと安全を保証できねーしな、オレをここにおきたくないのならツナがオレを下で寝られるようにこの部屋を増築すりゃいいだろう。それくらいの問題ならてめーひとりで帰結して実現してみせろ、ママンのすねをかじるのもいい加減にしやがれ」と、高校生のまだ金もなく庇護が必要な俺に、無情にも間髪入れずに淡々と畳みかけてきた。
俺が『そういうコト』に気が付いてそのままを尋ねれば、今更訊くのかという哀れみを帯びた黒い目と一緒に、そのままが解決策となる強固な鉄案を返してくる。でも気が付かなければリボーンのほうも答えない。本当にこいつはヒットマンとしても、家庭教師としても一流の奴だと、コトあるごとに俺はおもう───
……そう思う。(他人事のようにそう思えたらどんなにいいだろう!)
だから、本当はそんなに簡単なコトじゃないんだ。
(けど、だけど…言い訳かもしれないけれど、そのとき言いたいことはたくさんあったんだ。だけど、そのモットモな言葉の厚みを前に俺なんかが口をひらける訳がない。口を開いたとたん言われる言葉は決まってる。分かってる。「なんだ?俺に甘やかして欲しいのか?」そうリボーンは平然と言うんだ。俺はそんなことを言われたいんじゃないんだ。でも…っ…!)
俺は確かそのときもすっかり黙り込んでしまったんだと思い出した。
そんなことを思い出すとき、決まって俺はリボーンのことが怖くなった。
いつか、この子供につぶされてしまうんじゃないかと、こいつの言うことばかりに伺いを立てるような奴になってしまうんじゃないかと俺はふと考える時がある。そういうときは何をしても落ち着かない。でも逆に、ダメな俺のことだから『こういうとき』こそ『普段とまったく同じ生活』を演じていられるんだろうな、とも思う。
少しだけなら俺の異状をうっすら感じて欲しいけど、『気付かれる』のが本当に怖い。
特にリボーンには知られたくない。いちばんダメだった時の俺に何かを見いだして、『理想になる』確証もないのに認めてくれたのが、声に出して言ってくれたのがあいつだったから。ここまでダメな奴なのかと、そう知られて思われてしまったら、今度こそ何を言われるのか分からない。あいつが俺をあきらめてフッと居なくなること。それが今は何よりも空恐ろしいのだけど。多分それと同じくらい───
───同じくらい、そばに居てなにもかも見られるのが、途轍もなく俺には恐怖なんだ。
「ツナ」
ベッドのスプリングがキィッとたわんだ。
それに気が付けば、足音を欠落させて生まれてきたリボーンが俺のベッドのど真ん中に当然のように腰掛けていた。視線を戻せば、確かに降りた証拠としてハンモックが少しだけ揺れていた。
リボーンは体を捻って、ただポカンとする俺を正面から見つめて捉えていた。表情が読みづらいはずなのに今は真剣だということがしっかりと分かってしまったリボーンの瞳を受けると俺の方がいたたまれない気持ちになる───照れがついで出た。
「な…なんだよ珍しいな…眠れないのか?」
自分のことは棚にあげて言ってしまった。それもランボを相手にする時みたいに『家庭教師リボーン』に向かって…まったくの自殺行為だ。あっ。という短い呼吸と同時に青ざめた理由はリボーンのことだ、すぐ察しただろう。でも薄闇のなかリボーンの反応は違うものだった…あまりに突拍子もなかったから俺は夢か幻を見ているんだと思った。
「コーヒーが飲みてぇ。外まで付き合え」
何を言われたのか瞬時には全く理解できなかった。暫く俺がボケッとしていると、リボーンは懐からゆっくりと愛銃を取り出そうとするので、ようやく空耳ではなかったことを察する。
「わわわっッ!分かったからそれしまえーっ!」
「ならさっさと着替えろ」
言い捨てるとリボーンはハンモックの方へ行って上着を脱いだ。リボーンが山本みたいに運動して体を鍛え、汗を流しているところを一度たりとも見たことがないのに、野球部のエースなみに引き締まった体が当然のようにあらわになる。
以前、こいつが3〜5歳に特有の『成長痛』で足に痛みを抱えて立てなくなったときは俺も慌ててあちこち奔走したりして大変だったけど、そういう事が目の前で起こらない限りリボーンは俺と同い年だったかと今でも勘違いしてしまう。…妙な話だ、こんなに近い場所で5年間もお前とは暮らしてきたのに。
「コーヒーなら母さんを起こして煎れて貰えばいいじゃないか…」
ベッドの温もりと別れるのがなごり惜しくて溜息といっしょに不満をこぼした。
こいつが家庭教師として俺の家に来たときから分かっていたことだけど、本当に着替えているのかと自分の目を疑うほどの早さでリボーンは寝着からスーツに着替える。あっという間にシャツを着てネクタイを締め、上着に袖を通し、もう一度ネクタイの結び目を整えると同時に俺に言った。
「ママンは大事にするもんだ。てめーらジャポネーゼはホント孝行に疎いな」
殊に母親を大事にする国柄のイタリアだから、母さんに対する俺の態度は目に余るモノがあったんだろう。でも、それくらいじゃ銃を突きつけられる理由にはならないはずだ。……少なくとも日本では。
「…何か言いたそうだな」
リボーンが睨め付けるように目を細める。暗がりでも十分それはよく分かった。いや、分かるというより堪らないほどヒシヒシ感じる。
「え?いやっ何でもない!でもなんで急に…?」
しどろもどろに答えながらパジャマのボタンを外す俺を見下してリボーンは顕然と言い放つ。
「24時間教師ヅラしてんのもキツいからな。息抜きだ」
「外、小雨が降ってるけど…」
「もうやんだだろ。雨音がしねーしな」
言われてみれば確かに周りは雨が降っているにしては静かで、窓を開けるとリボーンの言うとおり小雨は止んでいた。まだ言い足りない、妙な気分ではあったけど、これ以上言ってもムダな気がしたので俺は観念した。ベッドから降りるとよりいっそう肌で冬の訪れを感じた。リボーンが戸口で待つ間ようやく着替えた俺は母さんとチビたちを起こさないように玄関の扉をそっと閉めて、家から少し先の角を曲がった舗装河川沿いにある交通量の少ない自販機にリボーンと向かった。