(いつか手合わせ願いたいものだが───)
五枚重ねて二つ折りにした赤いおりがみを蝶々の形にくりぬきながらまだ見ぬ好敵手の姿を思う。
ランチアが器用にハサミを動かしながら作ったそれは一般人が頭に描くかまぼこを四つウィンナーに取りつけたようなチョウチョとは月とスッポン、つるのように滑らかな曲線をした二本の触角、体毛の膨らみまで再現した輪郭、螺旋をかいた長い舌、羽根の紋様まで繊細に切り抜きみごとに再現されたアゲハ蝶だ。
最後の一辺にハサミを入れ、ぱちんと小気味よい音をさせておもむろに折り紙を広げる。蝶の命を吹きこまれた赤い紙が羽根をひるがえすとまわりでは「すんげー」だの「すごーい」だのといった園児の歓声が遠巻きにあがる。
興奮に頬をぽっぽと赤くした園児たちが五メートルも離れたところに群がりたがるのは一概にランチアの顔が恐ろしいからに他ならない。
彼が曲芸並みのハサミさばきを披露する教室は年少クラスの部屋である。情操教育のなかでも簡単なものを取り入れて、今日はそれぞれがもっている“おどうぐばこ”の中にある教材と親しむ予定だ。まえもってクレヨンで好きな風景を描かせたA3大の工作紙がランチアの手元に二十枚ほど積みかさなっており、これの思い思いの場所に液体のりで蝶を貼りつけることになっていた。
年少はまだ遠慮がある。
だから幼児に不慣れなランチアにとってもこの年頃は扱いやすい。
だが、一度自分の強面に慣れた年中、年長の子どもは遠慮がなかった。
「らんちあせんせー、ちあせんせー」と用もなく追いかけ回されたことは数えきれない。果てはトイレまでカルガモ状態である。
ひと月も経てばこの教室にいる子どもたちにも怖がられなくなり、徹底的に好かれる妙な人徳が己の了解なしに遺憾なく発揮されるのだと思い、ランチアは少し遠い目になった。
「せんせ、ちあせんせ」
ハサミを膝で休めるわずかのあいだ物思いにふけっていると、エプロンの結び目をひっぱられる感触があった。
ふりかえると沢田綱吉という名前のこどもがぱっちりとした目をして自分を見上げていた。
この子ども(クラスメイトにツナツナと呼ばれていたのを耳にしてからは「ツナ君」と呼ぶことにしている)はランチアの強面を初対面からまったく恐れず、むしろ好いているようであった。
「ちょうちょください」
もじもじしながら両の小さな手のひらをランチアへむける。
引っ込み思案の気がある彼にしてはめずらしいそれを「順番にくばるから待ちなさい」と邪険にするにはランチアの根っこは優しすぎた。
「好きなのをもっていきなさい」
できるだけギスギスしていない声色をつくって返事をかえす。
器用なランチアはアゲハチョウだけでなくオオムラサキやウスバキチョウなど古今東西の蝶を作り置いていたので、彼の机は全国に分布する蝶の縮図のようになっていた。
「えとえと…黒いのください」
ツナがおずおずと指さしたさきにあったのはクロアゲハだった。
それは黒い折り紙を見たとたん、ファミリーが好んで着ていたスーツを思い出してしまったランチアが懐かしさから手に取り作ったものだ。
切り抜いてから黒い蝶なんて幼児ウケするわけがないと思ってやや後悔したが、あながちそうでもなかったらしい。
「ツナ君は黒が好きなのか?」
「うん。すき。にいちゃんだから」
「にいちゃん?」
「その色がすきなの。にいちゃん」
「あ、ああそうか。ツナ君のお兄さんが好きなんだね」
「うん。だからおれも好きなの。はってにいちゃんにあげるの。」
上司と同僚に辛酸を嘗めさせられ続けてきたランチアの心も思わずほこほこしてくる兄弟愛である。
「ツナ君はお兄さん想いだな。」
ほめるところは遠慮なくほめる質(たち)のランチアにそう言われてツナはすこし恥ずかしそうにコクリとうなずいた。
───時がすすんでお昼ごはんの時間になった。今日は週に一度の弁当持参の日である。ランチアが担当した年少クラスも他のクラスの例に漏れず園児はみなそわそわとしていた。
家の事情により弁当を持ってくることができなかった園児にはいつもどおりの配食があるのだが、みなしご経験のあるランチアにはそれが不憫におもわれてならず、そういう子にむけて手製のクッキーを配ることにしている。
これが望外の評判を博してしまい、しっかり持参してきた園児が、親のまごころ籠もったはずの弁当そっちのけにして配食の園児を羨ましがる事態におちいってしまった。
朝五時起きして作るランチア先生のクッキーを食べたいがためにわざと弁当を作ってもらわない園児が続出したのでランチアは頭をかかえた。
子どもに喜ばれるのは悪くなかったが本末転倒であることに変わりはないので次回から別の方法をとろうと思っている。ついでに言えば園長の六道から経費が下りるはずもなく、材料費すべて自腹を切るのでふところも痛かったのだ。
今日も配食と弁当の割合が五分五分となっていっせいに「いただきます」の号令がかかる。
この年ごろのこどもに行儀を求めるよりも楽しく食べさせようという方針なのでランチアは園児どうしのおしゃべりにはとんと口出ししない。
なので他のクラスに比べて彼の担当する教室は常に騒がしい。のだが、ひとりだけもくもくと弁当にむかっておぼつかない様子でフォークを動かしている園児がいた。
他の子どもはみなおしゃべりに夢中なので自然とその子どもが目についてしまう。
「ツナ君」
近寄って声をかけてみる。
「あ、ちあせんせ」
あわい髪の毛をふるりとゆらして不思議そうに見上げてきたツナのぱちくりと動く瞳をうける直前になって、眼下の小ぶりな一丁の弁当へランチアの視線は釘付けになった。
なんだこれは。
ランチアは生まれて初めて園児の弁当に圧倒された。
ツナが大事に抱えてぱくぱくと食べていた弁当は今までに見たことがないほど手の込んだもので、おかずはどれも小さく子どもが一口で食べるのに丁度良い大きさにそろっていたが同じ具材がひとつもない。
さらには色づかいにも気を配っているのかまるで懐石弁当のような仕上がりになっている。
ツナ少年の弁当箱は二段がさねで今流行りの戦隊モノ《ボンゴレンジャー》がプリントされた園内でもよく見るタイプの弁当箱だったが、上段下段それぞれに《一の重》《二の重》と名づけても遜色ないレベルのできばえだった。
だがはたして子どもの口に懐石弁当は合うのだろうか、とわいた一抹の疑問もすぐに払拭される。
よくよく見るとしっかり味が付いているか甘いものが中心で、どれをとっても子どもが好んでつつきそうな素材ばかりで作られているのだ。
配食のときはきまって半分を残すほど偏食の多いツナ少年のにぎったフォークが止まらないのをみてランチアは信じられないようなものを見る目でその奇跡の弁当を凝視した。
「すごいでしょ!」
ランチアが自分の弁当をまじまじと見ていることに気がついたツナはすこし得意気になった。
「あ…ああ、ツナ君のお母さんは料理が得意なんだな」
「せんせーちがうよ」
あらぬところでぷるぷると首をふられた。
「え?」
「にいちゃんが作ってくれたの。」
「………お母さんは?」
「きのうからとーさんと旅行に行ってるの」
「………本当にお兄さんがつくったのか?」
「うん。」
「そうか。」
再びツナ少年の弁当を見る。ランチアもかつてプロのはしくれとして生きていたので感覚的に分かるのだが、隙のないそれはどうみてもプロの仕業に違いなかった。
「ツナ君のお兄さんは名のある料理人なんだな」
年の離れた兄弟は母国でもよくみることがあったのでランチアは納得した。
「せんせーちがうよ」
またしても首をふられてしまった。そして続けざまに爆弾発言が降ってきた。
「おれのにいちゃんころしやなの」
「…………は。」
耳を疑った。
「ころしやは何でもぷろふぇっそなるに出来ないとダメなんだって。たまとるかとられるか、やるかやられるかだからってにいちゃん言っ──」
「ちょ、ちょっと待ってくれツナ君…!」
別にツナが悪いわけではないのだが、あまりにそぐわない日本独特のスラングが幼子の口から連発してくるのでランチアは慌てて止めにはいった。
兄が殺し屋。
銃社会の母国ならまだしも銃刀法で護られた日本にそんな話があるわけがない。目の前でにこにこしている園児のことが気がかりになりランチアはさぐりを入れることにした。
「お兄さんの年いくつか聞いてもいいか?」
「うん。ちあせんせーと同じだよ」
ということは二十五歳だ。ツナの母親の顔は知っている。確か沢田奈々という名前だ。明るくて人好きのする良い母親の印象があるが、いくら日本人が童顔だといっても二十歳以上も年の離れた兄弟をもつ親の顔とは考えにくかった。
「ツナ君のお母さんはいくつだ?」
「にじゅうさんさい。」
ありえない。
物理的にも無理ではないか。
途端、脳裏によぎったよくない言葉にランチアは自分で戦慄をおぼえた。
「………今日はお兄さんがツナ君のおむかえにくるのかな?」
ゆっくりした動作でツナに背を向け、目元に影をすえたのを悟られぬようたずねる。
どす暗いオーラをまとわりつかせながらも声だけは蛾が飛び交う白熱電球のように不気味に明るい。ほっぺにおべんとうを一粒つけながらツナは「うん!」と元気よくこたえた。