夜の十時を過ぎたというのに目を貫かんばかりに、それこそ太陽の代行者のように惜しげもなく輝きを放つ夜のネオン。視界いっぱいに飛び込んでくるのは照り返しで光る部屋の装飾の金と銀。そして深緑のテーブルマット。近場に目をやれば何列にもわたってどんと構えているスロット。奥の方にはきらびやかなドレスとタキシードに身を包んだ大人達が、テーブルごとに子供みたいにはしゃいでいる。
隣の女性と談笑しながらカードを切ってリラックスしている初老の男性が居るかと思えば、はたまた緊張の面持ちで手元のカードを凝視している若い男がいたり、別のテーブルでは透明なサイコロを瞬きもせずにじっと睨んでいる女性がいたりと、広々とした部屋に行き渡ったクラシックな音楽の中に浸りながら、各々の感情を隠すことなく一喜一憂していた。
「…リボーン…俺の今まで見てきたテレビと、一般的な知識と見解が間違っていなければ、ここ『カジノ』だと思うんだけど」
「カジノだぞ」
あっけらかんとして応えるリボーンにツナはだんだん夢を見ている気分になってきた。
そう思えば悪くない気がしたので、ツナは自分を騙し騙しもう一度目がくらむほど金と銀で彩られたような眩しい光景を顧みた。
しかしツナは自分の身近な現実問題に戻らなければならなかった。今この時でも日本では山本と獄寺が自分のために頑張っているのだと思うと、自分だけでも正気を保たなければならない気がしたからだ。慌てて頭を振ってカジノの雰囲気とリボーンの言葉に呑まれそうになった自分を叱咤する。
「…リボーン。俺たちイタリアに何しに来たんだっけ…?」
「格下マフィア潰しだぞ」
ツナは自分とリボーンの姿を改めて振り返った。そしてここ十数時間をできるかぎり鮮明に思い出してみた。
ホテルの前で待ち合わせてから昨日と同じ黒塗りの車で連行され、庶民的なツナには毒としか思えないほどべらぼうに敷居が高そうなブティックの前でおろされた。後から続いたリボーンに「イタリアではちゃんとしたモンを身につけろ」と言われ、何を言ってもリボーンは意志を曲げる気はないのだと悟りどうでもよくなっていたツナはリボーンに言われたまま、店の者が恭しく両手に納めて持ってきた高そうなタキシードを部屋の奥で試着し、そのあと男であるはずが鏡の前に座らされ、天然に跳ねた髪を丁寧にセットされ、極めつけに顔をいじられた。
朦朧とするほど長い間の拘束がようやく解かれ、従業員に勧められるまま鏡に自分の姿を映してみた。鏡の中に突っ立っていたのはどこか育ちの良い紳士の家庭の子供だった。本人も保証するほど明らかに鏡のむこうのツナは、ツナではなかった。とんでもない自分の変わりように内心驚いたが、従業員になで回されるのにへとへとになっていたために、何よりも気怠さが勝っていてツナの後ろで少し得意げに見守る女性が期待する感動はついに表に出ることがなかった。誠意を込めて自分を生まれ変わらせてくれた女の人をを裏切ってしまったことを、元気が残っていたならば穴を掘って埋まってしまいたいくらの申し訳なさを背中からひしひしとツナは感じた。奥からツナが解放されて表の部屋へ出てくる頃には、リボーン自身もスーツからタキシードに着替えていた。服装だけでなく、ツナと同じく顔にそれ相応のメイクをした様で、いつもより大人びて見える。
休み無しで疲労がピークに達したのか、今置かれている状況を思い返す事も止めていたツナは、なぜ抗争にタキシードを着ていかなければならないのかという疑問よりも目の前に拡がるひときわ目立った情報に素直な感想を抱いた。つまり、リボーンのスーツ姿は一歳の頃から見慣れていたが、初めて見たタキシードも恐ろしく似合うんだなとツナはぼーっと思った。
ブティックに入った瞬間ツナ自身がその場から逃走してしまいたい衝動に駆られるほどにわかに感じたことだが、改めて見ても、もはや自分とリボーンの装いは勝手見知ったコスプレの域を超えていた。
及び腰なツナ自身でさえそれらしく見えるので、当たり前のように背筋を伸ばして最高に洗練された姿勢、それでいて無駄のない振る舞いを崩さないリボーンの出で立ちなど似合いすぎて怖いくらいだった。
二言三言、支配人と思われる男と言葉を交わし、そしてそのままの格好でリボーンとツナはそこを後にして、ブテッィクの入り口に待たせていたイタリアに来てからずっと馴染みの車にふたたび乗り込んだ。車がハイウェイを飛ぶように走り、あたりがとっぷりと暗くなったころ、停車したのがこのカジノだった。
空港からこのカジノまで記憶を細かく辿ってみても、やはりツナはマフィアなんてマの字も見ていなかった。
呆然と暫くカジノを遠い目で見て、その眼差しのまま飄々としている年下の大人を目に映す。
「うん、俺もそうだと思ってる。…………で、ここで何するの?」
「ブラックジャック」
カジノの入り口に突っ立ったままのふたりの間に一方的に気まずい沈黙が流れた。
「……………分かった。俺、お前の近くでそれ見てるよ」
ツナの中で処世術が再発した。
ツナが一切口を挟まなくなると、リボーンはカジノの中をどんどん進んで奥の物々しい扉の前に仁王立ちになっている強面のガードマンに流暢なイタリア語でぶっきらぼうに命令を下した。すると目の前のガードマンは、リボーンの言葉が扉を解錠する呪文だったかのようにすんなりと巨体を重々しく扉の脇に立ち位置を変え、リボーンの視界に入るのを恐れるかのように片手で扉を開けながら頭を垂れた。
中で待っていたのは三人の男だった。
一人は扇状のテーブルの奥に立っているディーラー、一人はテーブルの手前に座ってグラスを傾けている身なりの良い小太りの男。もう一人はリボーンとツナを認めると優雅な動作で歓迎し、歩み寄ってきた恰幅の良い男だ。
その男と至って手短にぞんざいに挨拶を済ませると、男が差し出してきた握手の手を握り返すことはせずに、男とツナを置いてリボーンはさっさと奥へ進んで、コインがうずたかく積み上げられたテーブルへ滑るような動作で着席してしまった。
それに対して嫌な顔ひとつせずに満面の笑みで男は今度は一人取り残されたツナへ目を向ける。そしてネイティヴなイタリア語で話しかけてきた。聞いたことのない類のイタリア語にツナは会話を途切れ途切れにしか理解することができなかったが、単語ぐらいならリボ山のお陰もあって理解できた。
拾った単語は『彼』『クジラ』『紳士』『ドン・リッチョ』『ブラックジャック』
そして続けて目の前の男が自らの胸に手を置いて『私』と『総支配人』というのを聞いて、相手のイタリアでの階級とポジションを理解すると、目を見開き声にならない悲鳴を上げて自虐的な態度で後じさった。
「ツナ、早く来い」
開いた口が塞がらないツナをテーブルから少し苛立たしげにリボーンが声をかける。それが引き金のようにツナはぺこぺこと日本人らしく何度も頭を下げて支配人からリボーンの方へ僅かな距離ながら小走りで駆け寄った。
「どど…どういう事?さっきのガードマンといい総支配人って…リボーンの知り合いなの?」
「まぁ広い意味ではそうだな。0歳の時このカジノで少し遊んだくれーの付き合いだが」
「それって…」
ツナが口を開いて質問を畳みかける前にディーラーが申し訳なさそうに口を挟んだ。彼らの話すイタリア語をてんで理解できていないツナを哀れに思ったのか、リボーンが珍しく通訳してくれる。
「ゲーム開始だと。ツナは暫く黙って見てろ」
相手の名前くらいは何とか認識できた。今日同じゲームを共にする小太りで、ツナなら圧倒されてしまいそうな貫禄を身につけた男の名はドン・リッチョと言うらしかった。
リボーンとリッチョが各自のチップをツナが驚くほど大量にベッティングサークルに置くと、それに呼応するようにカードがディーラーの手によって一枚一枚規則的であって歌うように軽やかな手つきで配られていく。それは毛羽ひとつ立たない深い緑の上を同じ軌道で滑り、計算された見えないレールが台に敷かれているかのようにリボーンとリッチョ、ふたりの目の前でぴたりとカードは止まった。
クラシックな音楽が流れる広々とした個室でゲームを楽しもうとするふたりは悠然と足を組んでリラックスしている風に見えるが、その瞳は鷹や鷲の猛禽類を思わせる。
一度のベットで二、三枚を賭けて楽しむのかとツナは考えていたが、目の前の二人は何の未練もなく一山二山と賭けていくので目を白黒させた。思わず心配が口に出てしまう。
「リボーン、お前一度に賭けすぎじゃないか?」
「普通だぞ。ツナが所帯じみてるだけだ」
振り返りもしないリボーンの指摘は尤もな意見なのだが、ツナは思わず躍起になった。
「わっ…悪かったな!どうせ俺は一般市民だよ!」
しかしそれをディーラーに目で咎められて黙り込む。ツナは静観することに決めた。どうせ口ではリボーンに勝てっこないのだから。だが、口以外で勝るところがあるのかと言われればそれも怪しいものだった。
ベッティングサークルに大量のチップ。カードを配る。めくる。偶にバースト、プッシュ、ナチュラル。そしてブラックジャック。
ブラックジャックのルールは簡単だ。手持ちのカードの数字の合計が「21」を超えない範囲で「21」に近づければ勝ち。それまでプレイヤーはカードを引き続けることが出来る。しかし「21」を越えればそこで負け。ディーラー側には少し違ったルールがあるが、ゲームの流れは単純だ。だからツナにも十分理解できる。
そしてツナには簡単な計算もできる。だからさっきから背筋に嫌な汗が流れ続けていた。
リッチョの方にチップが流れた。次はディーラー、そしてリッチョ、ディーラー、今度もリッチョ、またリッチョ、次もリッチョ…
ゲームを続ければ続けるほどリボーンの手持ちのチップが明らかに減っていった。彼の手元に残るチップはもう残り一山しかない。
満面の笑みをぼろぼろ涙のようにこぼしながらリッチョが少しも悪びれる様子もなくリボーンに話しかけた。
『ぼうず達、ブラックジャックは初めてなのかい?大金をかけるカジノのクジラからの招待と聞いてわざわざ来たのに。いや、私は勝てれば何でも構わないんだがね!』
げらげらと笑うリッチョの迫力に若干怯えながらも、感情の中ではツナはだんだん悔しく思い始めていた。しかし僅かな疑問が頭をよぎった。
「(またこの人【クジラ】って言った…)」
「クジラっていうのはオレのことだ。個室でゲームを楽しんで大金賭ける客のことをハイローラー、クジラはそのハイローラーの中でも最上級の客の事を言うんだぞ。個室どころかカジノの手前から尻込みしているダメツナは知らねーだろーがな」
ゲームを相変わらず楽しみながら軽い調子でリボーンは言った。しっかりツナの心まで読んでいて、当然のように返事を返している。
「へ、へぇ…って!そうじゃなく!」
ツナは迷ったあげく、リボーンの今のカードの旗色を見て居ても立ってもいられれなくなり、リボーンに耳打ちした。
「……リボーンってもしかしてブラックジャック弱い?」
「そう見えるか?」
リボーンはカードを切る手を休めようともしない。
「その自信はどこから来るんだよ……お前さ、負けてるんだぞ?」
「そうだな」
まるでこの席に着いたときからリボーンはイタリア語しか分からなくなってしまったかのように、ツナとリボーンの間には会話が成立していなかった。もしくは、ツナの不安な悲鳴はリボーンにとことん冷徹なまでに無視され続けた。そしてついにリボーンのサークルに残されたチップは銀の一枚になってしまった。ツナは頭を抱えた。
ディーラーが手を休め、困った様子の顔をかぶってリボーンに話しかけた。
『お客様、何か賭けるモノを提示して頂きませんとゲームを続けることはできませんが…』
『そうだな…』
そう言ってリボーンはほんの少し考えた。そしてツナに向き直った。ツナはそれ見たことかと小さな胸をふんぞり返らせて、自分の身長内でできるだけ高い位置からリボーンを睨んだ。だがその虚勢もリボーンのいつになく真摯な眼差しひとつで脆くも崩れ去った。
「ツナ」
「な…なんだよ」
ツナが勢いに気圧されて思わずたじろいだ。
「構えるな、取って食いやしねぇよ。顔かせ」
真面目で純粋な瞳をした割には言っていることが普段となんら変わらなかった。その新手のギャップに瞑目しながらツナは言われるままにテーブルの前まで進み出た。
ディーラーとリッチョ、ふたりの視線が痛いほど刺さるのがよく分かった。ふたりがツナの顔を視認したのを確認してからリボーンはおもむろに、しかしハッキリと宣言した。
『 このジャポネーゼを賭ける 』
イタリア語であったというのにこれは虫の知らせか、何故かそのフレーズはツナの理解中枢に直結した。
「はぁ!!?…ちょっと待ておいリボーン本気かよッ!!」
「心配すんな。このカジノはマフィア絡みの要求に優しーんだ。人身売買もしてるからダメツナなてめーでも金になるんだぞ」
「よくねぇよ!!」
相手が最強ヒットマンリボーンで無かったら誰彼構わず頭を張り倒していそうな勢いでツナは力の限りツッこんだ。
ふたりの騒がしいやりとりにドン・リッチョがげらげら笑い始めた、バカ勝ちしているプレイヤーの余裕というものか、そしてリボーンを露骨に指さして何かを言っている。その口ぶりからして、リボーンの神経を逆なでしている言葉を吐いているらしいことはツナにも分かった。だが、リボーンは静かに熱することもなく、至って平然としていた。ツナにとってはそこが不気味な気さえしてしまうのだが、今日が初の顔合わせとなるリッチョには分からない。
「大丈夫だ。ボスとしての威厳を見せてやれ」
「こんな時になに言ってんだーッ!!!」
ぎゃいぎゃいと叫ぶツナを放り出してリボーンはリッチョに淡々と新たな賭けを持ちかけた。
『どうだ?』
『ああ、いいだろう。ジャポネーゼはこの世界じゃ高く売れるからな』
『決まりだな』
リボーンはテーブルに座ってこのときはじめて薄く笑った。しかしそれはゾッとしたツナにしか分からなかったようで、ゲームはそれ以上滞ることなくふたたび再開された。
トランプカードがまた包装の封を切られた。一からの仕切直しという事らしい。しかしリボーンとツナは一度負けたらもう終わりなのだ。ツナをとりまくその不条理さは彼自身の冷や汗とまったく落ち着かない気配でテーブルを囲んだ三人には面白いほど伝わってきた。
『しかし驚いたよ…このカジノ有数のクジラがこんな子供だとは…さぞかし君はこのカジノに良い思いをさせてやっているんだろう?』
完全に勝ち誇った大富豪の顔をしたリッチョが遠回しの嫌みをリボーンに向けてはき出した。少し間をおいて、今までのリッチョの挑発には全く乗らなかったリボーンが、はじめて口を開いた。それは諭すような落ち着いたもので、売り言葉を買うにはおおよそ不適当で、負けを認めるものとしても到底異質な声色だった。
『ドン・リッチョ。ジャポネーゼたちの邦にはこんな言葉がある』
『何だ?』
リボーンは初めてリッチョに視線をうつし、ポーカーフェイスを紐解いてツナに対してよくする高慢な態度をあらわにして言った。
『 “終わりよければ全てよし”ってやつだ』
そう言うリボーンの手持ちのカードは、合計で「21」を高らかに宣言していた。
『なっ……んだと…!こんなっ…ばか…な…』
リッチョはたった一度、テーブルについてこれが初めてリボーンの勝ちだったにも関わらず、彼の向こうに悪魔を見たような顔つきになり、ツナにも分かるくらい目に見えて動揺していた。
『悪いな、職業柄オレは追う方が性に合ってるんだ』
『しょ…職業って…お前はまだ子供じゃ……! ま、まさかまさか名が似ているだけかと…あ、あの【リボーン】がお前なのか……!?』
リッチョは蚊のように小さな声でわなないた。リボーンは謎めいた笑いをうかべている。
『もっとも、でかくなってからここへ来たのは初めてだからな。気づかねーのも無理ねぇ』
ディーラーは無慈悲にもリッチョの賭けた大量のチップをリボーンの元へ機械のように運んでいった。ツナとさほど背が変わらない癖に明らかにツナより長い脚を組み直してうっすらと妖艶に嗤う伝説の赤ん坊ヒットマン、リボーンそのものを目の当たりにして、リッチョの悪寒は確実なものになっていた。
彼は途端に負け続け、数時間後にはリボーンに全財産を巻き上げられてカジノを出て行くはめになったのだった。
「リッチョはボスとしての気質はまぁまぁだがギャンブルには目がないボスなんだ。トッポリーノは後ろ盾がないファミリーだからな。資金を絶っちまえばあっけねーんだ。これだけカジノに貸しを作っちまえばもうボンゴレに挑むような馬鹿なことはしねーだろ」
「でも最初から勝てるなら何でわざわざあんな面倒くさいことしたんだよ。お陰でこっちは気が気じゃなかったんだぞ!」
安心したとたん今度は腹の虫がおさまらず、つらつらと怒りをあらわにするツナを傍らに、リボーンは少しも悪びれた様子を見せずに言い切った。
「エンタテインメント性があった方がゲームはおもしれーだろ?」
ツナは一気に毒気を抜かれてガックリと膝と肩を落とした。
「……お前やっぱり最強だよ…」