「おーい風呂場組は大丈夫かー?」
真っ暗に逆戻りしたキッチンの方で声がする。ツナの父、家光である。『組』とか『チーム』だとか何でも一括りにしたがるのは豪快な性格故であった。
「ああ、大事ねぇ」
微細でもよく通るリボーンの声を聞きとった家光は安心したようで「奈々とイーピンは大丈夫だーそっち頼むぞー」と、でかすぎる声をいっそうイキイキと張り上げた。どうして家中の電球と蛍光灯が割れたのか、その原因の想像でもついたのだろうか家光は詮索する様子すらみせなかった。防音ではない沢田家の壁を知りつつもあれだけの大騒ぎをしていたツナたちの様子を一度も見に来ないその気性からして、全部の照明が割れたくらいで我が子の様子を見に来るというのは早合点らしかった。
一方、脱衣所で座したままリボーンは視界いっぱいに広がる闇の中の惨状に目を細めていた。
天井に近い位置の壁に取り付けられているブレーカーに引っかかったままのランボは黒こげになってプスプス音を立てながらブレーカーと共にショートしていた。電気を武器にする位だからものの40アンペアくらいで死にはしないだろうことは容易に考えられたのでリボーンは一瞥すると放っておいた。蛇足だが、蛍光灯が破砕した電力過負荷の原因はランボが電撃角でブレーカーに突っ込んだからであった。風呂場よりも狭い脱衣所で足蹴りすることを嫌ったリボーンが足払いをかけた拍子に、ランボがリボーンの頭上にある電気の源に接触してしまった。目も眩む閃光と同時にリボーンの功績も露と消え、再び闇に逆戻りというわけなのだ。
リボーンは物憂げにソフト帽をかぶり直した。
彼の気が晴れない原因はランボよりも近くにあった。すなわち、リボーン彼自身の肩口に身を寄せて凭れたまま意識を無くしたツナそのひとである。
電球と蛍光灯が破砕した今、沢田家に住む人の足元を脅かしているのは鋭く割れたガラスだった。それは脱衣所とて例外ではなかった。電球が砕けた瞬間、幾筋もの危険なきらめきがツナの全身に深い影を落とす前に、生来の機敏さを発揮したリボーンは大きめのバスタオルを纏ってツナのもとに滑り込み彼の頭を抱くようにしてその体を守ってやった。けれど、光の衝撃が強かったのだろうか、沈黙の中バスタオルを内から拭い去ってガラスの破片を注意深く払いのけた彼がツナを顧みたとき、ツナは大汗をかいたまま昏倒していたのだった。
いずれにせよ大したことはないと判断したリボーンは言葉をかけた。
「ツナ、おい起きろ…」
「う…」
たたき起こすか。だがリボーンはフとその考えを改めた。今殴って起こしても床が一面ガラスではツナは廊下を歩くことすら出来ない事に気がついたのだ。
「めんどくせぇな…」
心底だるそうにリボーンはつぶやいた。しかし、行動するとあらば迅速にこなすヒットマンは、タオル置き場からバスタオルを多めに拝借してツナの体を必要程度まで覆ってやった。体温が随分下がった上体には、間に合わせとばかりに自分で着ていたスーツの上着を掛けておいた。
それらの準備が整うとリボーンは僅かに反動をつけて同じ背丈であるはずのツナをいとも容易く抱きあげた。そして脱衣所を出て、依然として黒一色で塗り尽くされたなにも見えないはずの廊下に、少しも迷うことなく踏み出した。
無機質な面をしたリボーンの足元でバキバキと悲鳴を上げるガラスの叫声に呼応するかのように、ツナは辛そうに喉声を洩らした。亜麻色のくせっ毛からしたたり落ちた水滴が色味を失ったほほを伝い、もろいのどを撫であげて鎖骨のくぼみに流れこむ。
その支流は時を取り込むにつれ恐れを知らない赤子のように、リボーンのシャツまで薄闇色に染めあげた。そして、かの青年を気づよく抱きかかえる殺し屋の精悍な体つきを露わにさせる。
だがリボーンは何ら構うこともせず尚深い闇を求めるように廊下奥へと脇目もふらずに進んでいった。
「……う…っうわっ」
ツナが混沌とした実態の掴めない悪夢から跳ね起きるように目を覚ましても、彼の視界はまだ闇に支配されていた。暖かでやわらかい布団らしきものに包まれている感触を覚えて少し落ち着きを取り戻すと見えない辺りを懸命に見回した。
「起きたか」
少し離れたところから聞き慣れた声がした。
「あ…リボーン…ここは…?」
「てめーの部屋だ。下でぶっ倒れたてめーを運んできてやった」
「……ランボやかーさんたちは?」
「包帯ミイラになった馬鹿は下でママンたちと一緒だ。家光は飛び散った照明の片付けをしてる。オレはママンの言いつけでてめーの看病。今日一晩は電気使えねーからコレで我慢しろ」
そう言ってリボーンは明かりを灯した。灯火の根源は、土台のしっかりした燭台に接地されたレトロなローソクだった。
「あの懐中電灯は家光が使ってる。動き回るわけじゃねーし、今はこいつの方が広範囲を照らせて勝手は良いだろ」
リボーンの言うとおり、大ぶりなローソクに照らされた部屋にはリボーンとツナしか居なかった。ローソクが揺れるたび、ふたりの背後に佇む彫りの深いひと影がやまなりに膨らみ、物々しく息を吐いた。炙り出された生き物のように踊りつづける影に感情を奪われでもしたかのようにツナの表情は心もとない。それを眺めていたリボーンは短い溜息をひとつつくと、手に持っていた布の束のような物をツナの頭に投げつけた。
「いつまで呆けてやがる」
「なっ…だって仕方ないだろ…湯冷めしてまだ頭がガンガンするんだから…」
「その格好で何時間も居りゃーそうなるのは当たり前だ、ダメツナ。さっさと服を着ろ」
言われてツナは自分のハダカに気がついた。
「俺…まだ何にも着てなかったんだ…」
しかもそのままリボーンに抱えられて二階まで上がってきたという、『変態』の二文字が頭を過ぎってツナは喪失感と共にぐわーっと頭をかかえた。穴があったら入りたい状況とはこのことである。そんな風にいつまで経っても服を着る様子を見せないツナに苛立ちを覚えてリボーンのボルテージがじわりと上がった。ベッドに寄せた椅子からおもむろに立ち上がるとツナのパイプベッドの足をガンッと勢いよく蹴り飛ばす。ツナは突然のことに仰天してリボーンを見上げた。すると、相反して自分を見下ろすそれだけで人を殺せそうな視線と真っ正面からぶつかった。
「ウダウダうるせぇよ。着ねーんなら着せるぞ?」
眼光するどく只でさえ恐ろしいリボーンが、意識的に殺気をめぐらせて放ったドスがかった声である。それを聞くなりツナは顔を真っ青にしてネジが振り切れた人形のように何度も首を振るのだった。
「あんだけ鍛えても目に見えて筋肉がつきやがらねぇ…てめーつくづく体質悪ぃな…」
「ほっとけ!」
ようやく着るものを身につけ終えたツナは大事をとってこのままベッドで眠ることになった。ドライヤーが使えないので髪も乾かせない。かといって必ず乾かさないと困るものでも無かったのだが。
近くの椅子に座ったリボーンが黙して見守る中、ツナは目を閉じて頭の下で腕を組んで仰向けになった。
──…枕元にある時計の機械音が部屋中すべての音を支配している。ツナは自分の息すらうるさく感じている自分に気がついた。気を紛らわすように枕の位置を変えてリボーンの方へ視線を向ける。見せつけるように組んだ長い手足、嫌になるくらい均整のとれた体つき、目元をソフト帽で覆ってはいたが、端正極まる頬骨の上に彼の長い睫毛をツナはしっかりと見た気がした。
不意に、両腕と胸に水をかぶったような痕跡をみとめ、そこから意識を離せなくなったツナは水あとに誘引されるように我知らず口を開いた。
「──なぁ、リボーン」
「何だ」
ほかを微動だにせずリボーンは唇のみで応えた。
「その…あのさ……ありが…とな。天井の照明が割れたとき俺のことかばってくれて…」
「今更だな」
「…そうだね。でもさ、やっぱり言っておきたくて……」
「…………」
「ありがとう」
「…………」
「…………」
「…………ツナ」
「なに?」
リボーンは足音もなく歩み寄るとツナの額に静かに手を当てた。感情など生まれた時から持ちあわせていない様子で自分を見つめるリボーンの瞳にツナの瞳が翳ろいだ。何かを確認したいようでリボーンの手がふたたび伸び、ツナの左肩を軽めに押さえつける。ツナ自身も抑えきれなかった体の震えがリボーンの腕に否応なしに伝わった。
「カゼ寸前だな。」
「え……そう…なんだ…」
リボーンは流れるような仕草でソフト帽を椅子に置くと、片足をツナのベッドに乗り上げたまま彼の眼前に手をゆるりと差しだした。
「寒いだろ。左手くれーならにぎらせてやってもいーぞ」
それは気の置けない教え子をからかい過ぎたことに対して、彼なりの詫びつもりであるのかもしれない。そして、これこそがリボーンの単なる気まぐれだったのかもしれない。いずれにせよツナは年下家庭教師の申し出をありがたく受け取ることにした。
「…サンキュー…、リボーン…」
ツナは嬉しく高揚する気持ちを苦笑にまぎれさせて照れ笑いのようにはにかんだ。リボーンの手は多くの冷たいモノを解かすために直情で、ひとたび触れさえすれば無条件にあたたかいのだとツナは肌で実感した。熱のためか、いつもよりリボーンの手が大きく思えた。
──しばらくして、リボーンの耳に聞こえてきたのは教え子の静かな寝息だった。
「寝たか」
もう用は済んだな、とばかりにツナの手を軽く振りはらって部屋を出ようと彼は静かに腰をあげた。ほどかれて、ぽすっと枕の上に着地したツナの右手はすこし寂しげに夜闇をなでる。それでも起きる気配がないのを確認してからリボーンはドアへ向かおうと上着を肩に掛けて踵をかえす──だが、後ろからほかでもない彼に呼びとめられた。
「かあさん…もういっちゃうの…?」
普段の彼なら暗殺者と自分の母親を間違えようはずは無いし、そんな自殺行為を間違っても殺し屋を兼業している家庭教師の前で言うことはない…つまり今のは寝言である。
だが、リボーンはかるく眩暈をおぼえた。
ゆくゆくはマフィアのボスになる男がこんな寝言を言うような奴では、家庭教師のプロフェッショナルを自負するプライドがゆるさなかったのだ。幼少の頃のトラウマな思い出を気の済むまでリフレインしているのだろうが、なまじ、日頃の教育成果が発揮された滑舌具合なのでこの時ばかりはタチが悪い。
「怖いよ…一人にしないでよ…──」
家庭教師の機嫌を損ねさせているとは露とも知らず、ツナはさっきからマフィアのボス候補としてあるまじき威厳のかけらもない問題発言を連発している。
もっとも効果的な羞恥心を煽る矯正法なら人一倍世間体を気にする教え子の無意識下にもはたらくことを知っていたので、寝言をこれから毎晩録音してきかせてやろうかと思った。だが、もっと即効性のある解決策を思いついたようで、リボーンはサドっけのある色をさせた目でにやりと彼を眺めた。
「ねぇいかないで──おねがい…一緒に寝てよ…」
「目が醒めた時のてめーが見ものだな。ツナ──」
闇のように黒いスーツの上着が彼の肩からぞんざいに椅子へ放られる。わずかに風がおこり、蝋燭の火がふわりとゆらいで煙のなかへかき消えた。
「うぅ…ん…」
ツナは息苦しさのなかでぼんやりと目が醒めた。
嫌な夢を見た後だったからかもしれない。できることなら忘れたい──小さい頃、買い物の帰り道で母親つたいに『口裂けおんな』という妖怪の存在を知らされた時のことだ。怖い話にまったく免疫を持たない当時、その怪談話はツナに劇的なマイナス効果を与えてしまった。そのため、話を思い出すたびに体の芯からふるえあがったツナは奈々と一緒に寝たがることが多かった。果ては夜だけでなく昼の生活にも支障を来し、お陰でしばらくのあいだ、喉カゼをひいたときでもマスクをつけることだけはむずがる始末だった。
そんなことがあってかどうかは分からないが、いくつになってもそのテの話にめっぽう弱いツナなのであった。
「あー…やな夢だったな…」
布団をかぶって寝ているようで、息をするのが苦しくなっていた。同時に、喉の渇きをおぼえ、新鮮な空気をとりこみたい気持ちに駆られて寝返りを打とうとした。
「…あれ…?…動けな…い…!?」
小心者のツナはたちまち青ざめた。がっちりと後ろから捕まえられて動けないのだ。ツナが腕をひらこうと足掻いてもまるで万力を相手にしているかのようにビクともしない。金縛りに遭ったように嫌な汗が背中をつたった。
(まさか…これ…夢の続きなんじゃ……)
怖い夢から起きたと思ったら実はホラーな夢の続きだった。そういう恐ろしい想像はなかなか止まらない。だが今のツナはあの頃から少しは耐性がついていた。とりあえず自分を押さえつけているものを見ておかなければならい気分に後押しされてツナは恐る恐る後ろの何かを顧みた。ツンツンした髪のようなものがぼんやりと目に映った。闇の中でよくよく目をこらす──
「りっ…!?」
ツナは出かかった大声を咄嗟に呑みこむ。他でもない、リボーンに後ろから抱きすくめられていたのだった。理由はまったくわからない。だが今起こせばリボーンに殺される。しかしこのままでは酸欠で多分…死ぬ、そんな悪夢がツナの脳裏をよぎった。
結果、ツナはリボーンが起きるまでただジッと待つことにした。
『嵐が過ぎるまで耐え忍ぶ』──これが彼の処世術である。
─それから30分後─
「あっ……もうムリ!ムリだってリボーンッ!!…ちょッちょっとストップ!やめっ…やめろ…ッ…息ができな…っ………いやっ…だ…っ離せッ!アッ……あつ…いッ…」
「すぴー」
…この野郎わざとやってるんじゃないだろうか…。ツナ脳裏を疑心が駆けめぐった。
「(っ…リボーーーーン!!!)」
奈々と家光が感電したランボの手当てで忙しいため、下で寝ることを遠慮したイーピンがツナさん一緒に寝て、とマクラを抱えてせがみに来るまであと30分。ツナはとことんリボーン仕込みの生き埋めを味わったのだった。