counter

その日の夜、ひとりの部下が死んだ。
邸の前にひろがる湖のほとりで溺死体となって発見されたそうだ。
超直感が悪い予感を肯定する。
無意識が示したとおり、死んだ男はおととい報告に来た諜報部に所属するあの部下だった。
外傷はなく、胃の中も正常だった。何もみつからないことで不審な点は多くあったが、部下の身辺を数日調査してこれという確証が得られなければ自殺として処理をするという知らせを受けた。

「───わかった。そうしてくれ」
通信を切る。そう時経たずして開かれた部屋の扉からリボーンが姿を見せた。ひと呼吸のあいだに只ならない空気を察したようで気遣わしげな気配がやわらかな声色にのって俺の耳に届いた。
「どうした?」
俺は重々しく口をひらく。
「部下が死んだよ。今日お前に会わせようと思っていた」
「………そうか」
「お前の言葉。信じるしかなくなっちゃったな」
背もたれに深く身を沈めて溜息混じりにわらってみせるとリボーンが俺との距離を近くした。執務机のすぐ向かい側で切れ長のまぶたに隠された瞳の虹彩がはっきりと見える。その黒い宝石みたいな双眸の中には焦燥した青白い顔が写っていた。
「俺は無事だぞ。現にツナの目の前にいる」
「そうだよね。…ごめんな。帰った早々余計な心配させて」
自身を確認させるように伸ばしてきたリボーンの手を頬で受けとめてその上に手を添えた。いつも冷たな手を肌で確かめると身の内にわいた動揺が霧散していくのを感じる。
「もし何かがあったとしても俺がここに帰ってきた事実は変わらねぇ。そうだろう?」
「うん、…うん」
もう、いいや。忘れてしまおう。
俺は、リボーンさえ無事なら自分の記憶が不確かなことも有耶無耶にできるダメなボスなんだ。
「なあリボーン…」
「なんだ?」
「…おかえり。」
「ああ、ただいま」
リボーンの目元がわずかに綻ぶ。そうされることで気を張らせていたことに気がついた俺は後ろめたかった想いをようやくほどき、目の前の黒く艶やかに映えるネクタイを指にからめて引きよせた。


──不安だったんだ。九年前のようにお前がまた突然いなくなるかと思って。
(なあ…)
その日は俺から誘った。罪悪感だけじゃない。
機械を通してじゃなく、あいつの声を聞きたい。あいつの冷たな肌を感じたい。
───もう一人にはなりたくなかった。
衣服を身につけたままベッドにはいり、身をもたせているリボーンの上に馬乗りになった。
首からゆっくり引きぬいた薄銀色のタイを自分の両手にゆるく巻きつけてぴんと張り、頭をかかえこむようにしながら彼の瞼をおおった。強い視線からはずれてようやく彼の顔を正面から見ることができる。
照明を薄暗くして、夢と褥をともにしているような感覚に陥ってしまっても一人硬質さを失わない黒い瞳が好きだ。
だから俺はそれを隠すことで独占する。けれどまだ欲しい。鼻先と鼻先がふれあうほどの近い距離で、彼に耽り、リボーンをかたちづくるすべてのものが好きだとあらためて思う。
フと目をおとすと、間際もあとも微動だにしない目の前の見目良い唇が欲しくてたまらなくなる。

ああ…いつから俺はこんなに弱くなったんだろう。





気がつくと白もやの中にいた。
手を伸ばしても濃密でひんやりとした大気に触れるばかりでここがどこなのか確証を得られるようなモノは見つかりそうになかった。
足元を見ると自分の両足を避けるように前からうしろへ空気が流れていくのが分かった。足のかたちをなぞるように白くつるつるしたタイル貼りの床が見える。
どうやらこの白もやは俺を避けて、とり囲むように流れているみたいだ。
だれかいませんか。
俺は叫んだ。けれど反応はかえらなかった。
もう一度、今度はもっと遠くまで届くように叫んでみた。
それでも近い靄すら晴らすことが出来ない。
この白いものは異常なものなのだろうか、それなのに超直感はなにも教えてくれなかった。こんなに視界が悪いのだから俺を見つけてくれるかもしれない人も、きっと同じことになっているのかもしれないな──そう自分を勇気づけた。

──リボーン。
気づけば一番傍に居て欲しい人の名を呟いていた。
その時だ。
俺の後ろで風が巻き起こった。まるで春の嵐みたいに周囲のもの全部をとりこんでいくようなうずが中心にあって、そのさきに人影が見えた。
彼の色に心がはずんだ。
見間違えるはずがなかった。
駆けていこうと、そう思って前のめりになったら急に足が重くなった。
おどろいて下を見る。さっきまで俺をよけていたはずの白いもやが幾重もからみつくように両方の足首を取りこもうとしていた。
恐怖を覚えてとっさに彼の方をみる。
(嘘…)
手を伸ばせばとどく距離に居たはずの彼がおぼろに霞んでしまうほど遠くにいる。
おいていかないで。
求めるように両手をつきだしても触れるのは濃密な白ばかりだった。
なおも巻き付いてくる白から逃れようと、がむしゃらに全身をふるう。
(ああああ──ッ)
雄叫びをあげるように力を振り絞れば一瞬だけ絡みつく力が弱まった。今だ!
俺は転がるようにあいつの元へ走った。
うしろから大きな気配が追いかけてくるのが分かったけれど、全速力の俺に分があった。
おれはここにいるよ!
そう彼へ言葉を投げかけるけれど、いっこうに距離が縮まる様子がなかった。
怖い。置いていかないで。ひとりにしないで。
寂しい。
寂しい。
寂しい。
会いたい気持ちが溢れるほど嗚咽がじゃまをして傍へいこうとすることが出来なかった。涙が邪魔をして黒がぼやける。足がもつれる。ぬぐってもぬぐっても、目の前にしっかりとあったはずの影がクリアに見えない。
ふわり、と陽炎がおわるときみたいにあっけなく人影は白に染みこんでしまった。
信じたくなかった。
こんなところで一人になる?
ひとりぼっち。
だれもいない。
だれもおれをみつけない。
ひとりになってしまった。
(ウソだ!嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!リボーン──ッッ!)





「…──ッ!!」
眩しい。
射してくるような光に堪らず目を逸らす。
手の甲でぬぐうように目元を擦ればようやく目が明るさに慣れて薄目をあけることができた。次いで冷たい透明なにおいが鼻腔をとおりぬけた。
朝のにおいだ。
「…あ」
寝ている間に泣いていたらしい。まぶたが重く、頬から耳たぶあたりが冷たかった。それでもタオルで拭う気すら起きず、俺は気が落ちつくまで両手で顔を覆っていた。
「なんで…」
さっきのは夢だった。
よかった。
そう実感しているはずなのに心臓が早鐘をうつのを止められない。
超直感みたいな背筋が粟立つような感覚じゃない、もっと別の、近くの大切なものが…例えるならこの心臓がいきなりなくなってしまったみたいな…すごく嫌な予感がした。
(リボーン…)
両手をはなして首を横へめぐらせた。ひろいベッドの横はがらんどうで、白さだけが際だっていた。
白。
また嫌な夢がよみがえる。俺をひとりぼっちにした白は…これのことだったのだろうか。
いまだ気だるい体をもてあましながらもシーツをなぜる。夜のせいで波打ったままになっていても柔らかでさらさらと肌に馴染んでくる。白い砂に触れているみたいだった。
(……怖かった。)
ひとりはいやだ。何もわからなくなる。何を信じていいのか何のために俺がいるのか、これから何をしていったらいいのか。俺は生きているのか、死んでいるのかすらわからない。そこにあるだけの、ただ白いだけの世界は怖い。
熱くてたまらなくて、自分ではない別のものが欲しくて。
でも望んだのはこれじゃない。
俺は体ぜんたいを横にむけて足を抱えて小さくなった。自分のなかを塞ぐように顔を腕の中に突っ伏した。
脱ぎすてた夜着が足元でつめたくなっていた。