息をするのも煩わしく感じるくらい、その時のツナは懸命だった。次第にまわりが見慣れた所でなくなっても脇目を振らず追いかけた。人垣を飛びこえるように駆けぬけた。まるで平坦な航空写真を見ているように絶妙なところで十字路を曲がり、人気のない裏通りまで熟知してはしった。見慣れないマンション、公園、学校、住宅地──障害の攻略いっさいはボンゴレの超直感にゆだね、ツナは目をひらいてバイクを見失わないようにすることに全力をかけた。
小さな通りを幾つも幾つも抜けたところ、ひろい空き地に視界がひらける。目の前にボロボロで今にも崩れてしまいそうな廃(すた)れた工場が見える。その廃墟を取り囲む有刺鉄線のうえをスカルのバイクは楽々と駆け抜け、その勢いでバキッィと乾いた音をさせて扉を粉砕した。フロントタイヤから滑りこんでいったスカルを捉えてツナも遅れをとるまいとその中へ飛びこんだ。
建物のなかはいやに暗い。
自分の足音を確かに聞きながらツナは一歩一歩を慎重にすすんだ。
トタン張りの天井までなんの隔たりも持たないがらんどうの廃墟に寒さをおぼえて、身の震えを一息ついて軽くおしこめる。太い針がねの上を飛び越えたときにはもう灯りがみえるほど外は黒さをましていたから寒くだってなる、ツナはそう思うことにした。彼をとり囲むようにガラスの割れた窓のすべてが黒い十字をきっている、そのさきで、僅かにスカルがバイクをふかす音が聞こえる。それは忍ぶようにいんいんと薄暗い空間に響いていた。
「スカル!」
ツナはめいいっぱい叫んだ。その澄んだ声は闇にまぎれたバイクライダーの背中を掠めることができたようで、物々しい音がにわかにぴたりと止んだ。ツナはかまわず言葉を続ける。すでに死ぬ気の炎はきえていた。
「スカル、お願いだから聞いてくれ!」
すると、ツナの目の前の薄闇が動いた。ブーツの音をにぶくコンクリートに響かせながらアルコバレーノがそこへ現れた。
薬が入った小瓶と死ぬ気弾をどうでも良いとばかりに上へ放り投げてはキャッチする遊びをくりかえす。手の中にある死ぬ気弾がすうっとつめたく輝いた。その光沢を荒っぽく楽しみながらスカルはついでのようにたずねた。
「沢田、オレがこれまで先輩にどんな辛酸を嘗めさせられてきたか分かるか?」
スカルの声はとてもしずかだ。
フルフェイスのヘルメット、その中にある瞳はどんな復讐のいろに燃えて俺をにらみつけているんだろう──ツナは威圧感にけおされてひるんだ考えをめぐらせた。けれど、たとえそれがどんな怒りを押し潜めているのだとしても、負けるわけにはいかないのだ。黒くつめたい遮光板の向こうにあるスカルの瞳から、それでも、何か糸口を探ろうといっそう自分を叱咤(しった)する。
負けるわけにはいかない。
でも──と、ツナは思う。一体何を言えばこの子どもは納得してくれるのだろうか。相手は自分よりもはるかに頭がいいアルコバレーノなのだ。スカルが一度『こう』と決めたことを自分なんかが変えられるものなのだろうか?──そう、ツナは悩む。(ああ、まずい、これからその最強の子どもを説得しなけりゃならないのに!)一度そう思ってしまうとまともに考えられなくなってしまった。そして、段々こうやって策を練ることから余計なことに思えてくるが、その一方で少しでも彼が共感をひいてくれそうな言葉を必死に探している自分がいるのだ。
まるでヘビに睨まれたカエルのように、抵抗する自信をごっそり失ってしまったツナはなかなか次を言うことができないでいる。
そして、そんなツナをあざ笑うかのように空から雨まで降ってきた──はげしい、痛みも思考もまるまる洗い流してしまうような雨がふきさらしの天井をしきりに打った。ツナの後ろのほうで大きな雨つぶが水たまりに広くさざめく。今になって走ってきた時の汗を背に感じてツナは肩をぶるりとふるわせた。
ふと、今日はじめてひとりになった事に気がついて、まわりに味方がひとりもいない事に気がついて、ツナはいっそう孤独を感じた。ここには二人しかいないのだ。スカルと、自分しかここにはいない。それに気がつくと同時に、ツナはもうひとつのことに気がついた。
「(スカルも、今はひとりだ)」
いいや、ちがう。むしろあいつの方が最初から一人だったじゃないか。なんで今まで分からなかったのだろう、とツナは自分をせめたい気持ちになった。部下も、鎧ダコも、今のスカルは連れていない。
顔をつきあわせている二人が為そうとしていることは全く逆なのだ。けれど、どちらかが折れるしかないということに、ツナには納得ができなかった。
「(俺はリボーンが助かればすごく安心する。だから俺はここにいるんだ。…でも、それなら…ひとりで日本に来たスカルの気持ちはいったいどこへ行くんだろう…こいつ、今どんな気持ちでここにいるんだろう…)」
『(── 一人ってすごく怖いんです。何をしても自分が間違ってるようにみえるから ──)』
いつだったか、自分が誰かに話した言葉が、うえからふわりとおりてきた。そして、頬と全身に古傷をのこしながらそれでも笑っていた人の声を思い出させる。力強い声はツナに少しだけ勇気を与えるとたちまち空中にかき消えてしまったけれど、まるでその人が──仲間や友だちがすぐとなりにいるような気がして、ツナはわずかに苦笑した。
「貴様に分かるはずがないな」
小馬鹿にしたようにスカルはせせら笑った。けれど、ツナははにかむような顔をした。
「──知ってるよ、俺もお前と同じで理不尽な事をされたことがあるから、あいつのひどさは分かるんだ」
自分を隠さず自信をもって言えるただひとつのことだった。ツナは、考えるいっさいをあきらめてラクな気持ちのままそう言った。
「………」
スカルからの反応がとだえ、二人のあいだに沈黙がながれた。
ややしばらくして、ようやくスカルはおもむろに口をひらく。
「……そうか、貴様はオレと同じだというのか」
ゆっくり叩きつけるような声が響いた。
「ではなぜだ?なぜ『駒』としか扱われていないのに貴様はそう笑っていられる?なぜあんな奴を助けようとする!?」
「…わからない。たぶん、あいつに『使われている』のはスカルと変わらないとおもう。…けど…」
家を出るまえに見たリボーンの様子が脳裏をかすめた。とても苦しそうだったのをツナは今でも覚えている。
「……ただ、俺は………自分がしてやりたいからやってるだけなんだ…」
ツナは自嘲するように眉を伏せた。その拍子、スカルの中で何かが切れた。
「理不尽を怒(いか)ることすら出来ないのか貴様は────腰抜けの偽善者め」
フルフェイスヘルメットのために見えないはずの、今は荒れた獣のようにぎらついているのがわかるスカルの目に正面から射抜かれた錯覚にツナは囚われる。恐ろしい、呪われた者達と人外に値するアルコバレーノの瞳だった。
「その化けの皮剥いでやる」
昂(たか)ぶりを無理矢理押さえ込んだように不気味な静かさを取り戻したスカルはその右手をスッとかかげた。彼の右手にあるのは成長痛の特効薬がはいった小瓶。それが腕に力を込めたスカルによって破棄されようと、メリメリと悲鳴をあげはじめた。
「っ!スカルやめろッ!!」
「遅い」
ツナの必死の制止も叶わず、スカルは手に持っていた小瓶をあっけなく砕いてしまった。鋭い音が弾けてツナの耳に痛々しく反響する。スカルの厚手のグローブを通して地面へポタポタと流れる薬液をやりきれない面持ちで見つめたツナは瞑目した。それを見たスカルはさも可笑しそうに声をあげて嗤っている。同時にスカルは興味を無くしたのだろうか、彼の手を離れ、地面をころがる死ぬ気弾が薬液にまみれていっそう冷たく輝いていた。
「…無駄なことだったな。沢田」
スカルは冷たい目でツナを見下ろした。ツナはぎりっと唇をかんだ。
「でも──それでも俺はあいつが苦しんでいるのに黙って見てなんかいられなかった!」
「まだ言うのか…貴様」
スカルはどう猛にうなった。追い求めてきた唯一の理由を破壊してやったのにそれでも正面から自分を捉える目をみせるツナが理解できなかった。そしてなお、自分に向かって正反対の事を言うツナがゆるせなかった。スカルの暗い感情が鎌首をもたげてくる。彼は心の底から思った。
(この生意気な人間のすべてを消し去ってやりたい)と。
それはスカルにとって一瞬、自分の何を賭けても足り得るほど強いねがいだった。
「ス、スカルっ!それ以上なにかを思っちゃダメだ!!死ぬ気弾が後ろに──!」
ツナから警告が発せられて彼の耳を小うるさく障る。彼の声をおわりまで聞くことなく、最後のひき金で弾かれたようにスカルは反射的に叫んでいた。
「うるさい!オレは誰の指図も受けないッ!!」
「──っ!!」